cureless3/3

「オスをいたぶってもつまらんがなあ!」
 奴は僕の必殺の炎を、意外と素早い動きで避けた。そしてそれと入れ替わりのように指からかすかに煌く何かを出してくる。僕の鱗は結構重い(それでも鈍くないとは思うが)上に、身体が大きいので避けられない。まあ、並の攻撃では鱗は傷つかないはずだ。
 僕の身体に絡みついた、それは黒光りする糸のようだった。いや、人間の大きさで考えれば縄くらいの太さだろうか。何にせよ、僕はあまり気にしなかった。
 動きが制限されてもどうという事はない。もう一度、灼熱を蓄え…ようとして…。
「…まあ、君は綺麗だから、我慢するとしよう」
 奴が笑うのに気付く。相変わらずの何となく不快な、そして冷たく喜ぶ笑い。
 僕は直感的に危険を感じた。遅かったけど。
 奴が自分の指に絡みつけた縄を何ということもなく引いた。その瞬間、鱗を貫通して…痛みが侵入してくる!
「!?」
 人間の膂力ではありえないことだ。同類にしても…何気なくそんなことができるはずもない。けれども、僕の炎を同じ術なら…?
 ともかく、奴の放った縄(?)の一本が鱗を破って、左腕のつけねの肉に食いこんでいる。縄を血の雫が伝っていた。下手に動けば余計に傷が深くなる。けれども黙っていても、奴はぐずぐずと縄を引いていくようだった。そう、それで悦んでいるんだ…。
 右手で縄の束を持ったまま奴は無造作に左手を振った。距離的に不可能なはずなのに(まあ、同類に常識なんて通用しないのか)僕に違う痛みが届く。いつのまにか、その手が長い鞭のようになっていた。それですら、白金の鱗を浅くではあるが切り裂いている。本当に、僕は修行が足りないらしい。
 …でも、考えてみたら奴だって、そういう人間の想いから生まれたはずだった。
 なのに僕は、奴を浄化できるのか。浄化って…何だ?
 そんな僕に、奴は容赦なく攻撃してくる。
「どうした? いい声で鳴いてみろよ。彩音のようになあ!」
「………!!」
 彩音…!
 奴は彼女にも同じことをしたのか! 他でもない彼女に…!
 ぼくはかのじょのために
「くあああああアァ……ッ!」
 光を……!
 身体に光冠(コロナ)を集める。そのときの僕は、自分のことを考えていなかった。そんな余裕がなかった。その力は、僕にはまだ制御しきれない。それでも、彼女のために!
 その光を撃ち降ろす。形を持つ刃のように空気を撫でる光の並、扇形に広がる天の牙。
 光牙の裁定(メガフレア)は、まっすぐに奴に下される。自分勝手な裁定の光…。
「何だと…!?」
 扇形の光を避けようはずもない。光は黒い縄を灼き切り、そして奴に届く。その後のことは僕にもよく見えない。その熱量が空気を灼き、小さな放電が起こる。
 次の瞬間に疲労と痛みを思いだし…僕は、そのとき初めて片腕がないことに気がついた。衝撃はあった。でも、僕の腕なんかはそのうち再生するだろう、彩音の心の痛みには比べようもない…。
「馬鹿な…こんな奴に…!?」
 光に灼かれ、それでも奴はまだ存在していた。そのあたりは同類だからだろうが、もともと僕ほど体力に優れているわけどもないようだ。皮膚が融けて、足元に赤い斑を作っている。
 僕は迷わない。彩音を傷つけた、それだけが事実だ…。
 満身創痍の僕は、それでも奴に近寄って、残った右手を振り上げた。炎でもよかったのだけれど、鉤爪の手応えを、憶えておかなくてはならない気がしていたから。
「言ったはずだ。…僕は彩音のためにいる。これからも、ずっと」
 奴は、笑ったようだった。よくわからなかったが。
「彩音のため? 本当に? そうして自分の価値を認めたいだけだろう。…同じだよ。ただ俺が、君のように生まれなかっただけだ。そうやって彼女に寄生していればいい…そういうものだから『俺たち』は」
「違う! 違うッ!」
 それ以上聞きたくなかった。わからないからだ。
 だから僕は、右の爪をそのまま降ろし…奴の人間そのものの身体を引き裂いてやった。返り血も、あくまでヒトに近かった。抵抗しなかった、奴の首があの笑いを浮かべたまま転がっていくのを何となく見る。その瞬間も、快感だったんだろうか…。
 ただ、これで彩音はもう苦しまなくて済むだろう。そのためなら僕は汚れてもかまわない。そう、彼女が汚れることなんて、ないんだから…。
「僕は…違う……」
「…………龍?」
 その声を、僕は最初幻聴だと思ったが。
 そういえば、ここは彼女のマンションの前だった。あまりに人気がないので気にせず戦ってしまった。と言うか、どうにも手加減のしようがなかった。そういうわけで、辺りはかなりひどいありさまだ。
 そんな中で、その声は嫌に生々しく残酷に僕に届く…。
 そして彼女はどうして、『コレ』が『僕』だとわかったのだろうか…。
 僕は反射的に振り向いてしまった。彩音が、買い物袋を落して立ち尽くしているのが見える。……彩音が。
 どこから見ていた!?
「彩…!」
 僕は自分の迂闊さを呪いつつ、たいした意図もなく手を伸ばす。その手が血塗れだ。奴の…ともかくも彼女が一緒に住んでいた奴の血。
 そして奴の残骸は、そのまま残っている。
 彼女が目の前の現実を認めるには、かなりの時間がかかった。いや、そもそも認めてなどいないのか? 彼女はしばらく呆然と周りのモノを見て…そして不意に、
「イヤアアアア!」
 意味のない叫びが空に昇る。そう、それは本当に意味のない叫びだった。悲鳴でも泣き声でもなく、もっと動物的なものだった。声が割れても、彼女はずっとその声を発しつづけている。
 僕は彼女に何もできなかった。どうにかするにはあまりにも、僕はここに彼女に見せてはいけないものを揃えてしまったのだ。
 肺の中の空気を全部使ってしまったのか、彼女が声をやめて空気を飲み込んだ。しゃくりあげ、がたがた震えだし、そのまま彼女の身体が、何かの支えを失って倒れていく…。
「彩音ぇ!」
 僕には、わかってしまった…それが何なのか…。
 彼女を血で汚して支えた僕は、彼女の聡明だった瞳に何も映らないのを見てしまった。それはただ空虚に濁って、僕を見上げるだけ。口元に不明瞭な笑みさえ浮かべて、彼女はもう、何も言ってはこない。
「ああ……!」 

(僕は彼女のために)
 殺してしまった。
(かのじょのひかりのために)
 どうしようもなく傷つけた。
(かのじょはぼくがまもる)
(ぼくのそんざいりゆうは、すべてきみに…)
 嘘だ!
 だって僕が殺してしまった。かのじょの、こころを。
 彼女の心を! 奴が殺したんじゃない、この

「ぼくが……ゥアアアアアアアアアアァ!」
 かのじょをころしてしまったぼくにどんなりゆうがいるだろう?



「何っ!? 遅かった!?」
「お、おい永!」
 またしてもその場に現れた存在がいる。今度は…4人? 走ってきたのに息も切らしていない。彼らは彼女と同様、この場の光景に唖然としたようだったが…それはほんの数秒だった。何か事情を知っているように。
「ドラゴン!? なんでこないなとこに…」
 そういう男には見覚えがある? いや、わからない。
 わからない…もう、僕には何も…。
「…サディケルが殺られている? 先を越されたのか?」
 微妙にイントネーションの異なる日本語で言うのは、黒ずくめの外国人.妙にぱりっとしすぎた格好をしているが…僕には関係のないことだ。
「ねえ、何があったの!?」
 若い、野性的に整った顔立ちの少女が言う。
 僕はじりっと後退りした。怪しげな着物の男がその分の間合いを詰める。何かを溜めていた。僕と同じ、常識では計れない何かを。
「ちょっと待ってよ、サックー! …あんた、あのバンドの人!? そうでしょう! ちゃんと説明してよ、何があったの!?」
 少女は言葉の途中で、僕の人間の時のことを閃いたようだった。少女も、『同類』なのだろうか。いや、そんなことは…わからない。
 何を言っているのか…わからない…ただ、うるさい…
 うるさい!
 僕は吼えた、すべてをかき消すために。そうしてぼくじしんが、かのじょをころしたぼくじしんが、きえてしまえばいい…
 白の炎があたりを薙ぐ。「サックー」? は妙な花びらを出してそれを受けたようだったが、それでも相殺はできずに余波で着物の端が焦げる。
「うわ、あぶね! 何やねんいきなり! …っておまえ、そのコ彩音やん!」
 その名前はいやだ。僕には永遠に触れられない。
「どうしてだ? 〔人払い〕したんだろ?」
「いやそんなこと俺に訊かれても…。だから俺らに任せとけ言うたねん、わからへんのか!? 好きなおまえが恋人の格好のサディケルを殺したら、そのコが何思うか…!」
 もうおそいよ…
 好き? 誰が…嘘だ。そんなのはうそだ。
      だってぼくはかのじょをころした
「ウ…アアアアア!」
 もういらない。なにもいらない! こんなうるさいこというやつらも! ぼくをうんだすべても!
 もういやだ…ここにはいたくない。だれか、この、どうしようもないぼくを…
 もう一度炎を吐く。
「こいつ…!」
 焦ったように『サックー』が、桜になった。正確には絵だ。僕にはわからないけれども。
「待てって! 錯乱してるんだよ! だってこの人、サディケルを倒したんでしょ! 許せなかったんでしょ!? どうして戦うのさ!?」
「だからってどないすんねん! ここで俺ら焼死体になっても、洒落にならへんで!」
 言ってるそばから、その男の姿が消える。そしてそれと入れ替わりのように飛んでくる謎のナイフが、僕の鱗を掠める。
「もう遅いハルカ。ここで我々がやらなければ…被害が増えることになる」
「そんな…人を感動させる歌を歌えるヒトなのに…。私達はサディケルを捕まえに来たのに…」
 外国人と少女は、相変わらずの姿だ。僕には関係のないことだ。右腕で彩音を抱えたまま、その4人と対峙する。
 けしてしまえ…ぜんぶ! ぜんぶ! わからない、めにみえているもの。わからない、きこえることば。わからない、ぼくはどうして?
           おなじだからさ
「……ッ!!」
 僕は獣の掠れた息のような、そんな意味のない咆哮をあげる。言葉が紡げない。理由のない衝動と虚無感におされて、その3人(1人は見えない)に〔メガフレア〕を撃った。光の刃は斜めに降ろされ、道路に突き刺さる。
「うあっ! なんだこいつ!?」
「…やはり力ずくで黙らせるしかないようだな」
 ついさっき、あの『奴』を吹き飛ばした〔メガフレア〕を正面から受けたはずの3人は、無傷ではなかったにしても、まだ立っていた。どうやらそれぞれ『力』で僕の『力』を弱めたようだ。物理を越えた力も、同じ種類の力なら相殺される。
 もっとも僕はそんなことに構いはしなかった。次の攻撃を加えるために、太陽に力を借りる。 目に見えるものすべてが…滲んでいる。それらすべてをこわしても、ぼくのこの空虚はうまらない。
 3人(とどこかにいるらしい1人)も、もう腹を決めたらしい。それぞれ僕に似た『力』をぶつけてくる。僕も理由なくそれに応戦した。
 非現実的な戦いがどのくらい続いただろう。僕にはわからなかった。たぶん、そんなに長くなかったはず。
 …僕はさっきの『奴』と戦って傷ついていた。右手に彩音を抱え、左手がない。いやそうでなくとも、たぶん僕より長く生きている彼ら4人を相手に、僕が長く戦えるはずはなかったんだ。
「……ッ!」
 どこから飛んでくるのかわからない謎のナイフと見ているぶんには綺麗な桜吹雪のような凶器? を受けて、僕はとうとう道路に倒れこんだ。彩音だけは傷つけないように、擦り切れた理性が命令する。
「…もう気は済んだかいな? ええ加減にせんと、ほんまに消すで」
 またしてもいつのまにか、頭のところに関西弁の男が立っている。ずっと見えなかったわりには、今いやに格好つけた様子で言っていた。
「消したほうがいいぞ、そんな物騒な奴は」
 こんがり焦げている人間になった着流し男が後ろから言う。どうやら彼は…紙だから燃えやすいようだ。
 ともかく、僕は瞼を閉じる。
 ほら、僕1人に何ができる? ここで転がされるほどの力しかない奴に、彼女を護れたはずがない…なのに僕は、彼女を護れるつもりでいた…だから。
「もうやめようよ。こんなの、虚しいだけだもん」
 これは少女の声。そういえば、頭から猫耳が出ていたような…。
 僕の虚無感は消えない。見下ろす視線を感じながら、僕は意味のある言葉で言う。
「…もういいんだ。僕は…彼女を殺した僕に、生きてる意味はない…」
 そう、僕はたぶん、誰かに殺してほしかったんだ。罪に見合った、惨めな死を望んでいた…。
 おなじなんだ。僕に『奴』を浄化できるはずはない。僕が、僕がいたから…彼女が。
「…っざけんなよ、こんな滅茶苦茶してからに」
「隠さん?」
「何もわからんと死なれちゃ困るねん。寝覚め悪いし、後始末すんの俺らやで。…それにな、にいちゃん。意味なんて、そんな簡単にわかるもんやないねん」
「……」
 ぼんやり見上げた先の…隠さんとか呼ばれた男は、いやに格好よく見えた。彼はしゃがんで、僕の顔をぽんぽん叩く。
「だって俺らは、ここにおるんや。意味とかそんなん以前に」
「僕は…だって」
「自分を否定しても何も始まらないぞ。目を閉ざしても、耳を塞いでも! 君はまだ若い、だから今はまだ、しっかり見ていろ」
「…伯爵、かっこいい〜。そう、逃げちゃ駄目だよ。やってしまったことは取り返せなくても、いつか彩音さんに、届くまで…」
 ……わからない…。
「でも! 僕は…それじゃあどうやってわからないよ! 彩音は僕が殺したんだ僕のたったひとりのマスターが! 僕は…彼女の望みを…叶えられなかったんだ…だから」
 支離滅裂だ。やつあたりだ。余力があったら、また炎を吐いていただろう。
 そんなどうしようもない僕に、不意に差し伸べられた温もり…。
「!? あ や ね…」
 安全に降ろした彼女が…血で汚れた手で、僕に触れている。相変わらずのぼんやりした笑顔。 焦点の定まらない瞳は、それでも、この僕を見ているようだった。偽者でも、大切だった人をあんなにしてしまった僕を。何かと引き換えにケガレを消した笑顔。
 彼女にケガレは要らない。僕はそう望んだかもしれない。でもそれはこんな結末じゃなかった…。
 僕と、他4人の見ている中で、その彼女は呟いた。
「いたそう…かわいそうね。だれもが、いたくないせかいがいいね。みんな、しあわせになればいいね。だれもなかなくていいもの」
 それが、『奴』も見抜けなかったまっしろな彼女の真実の…。
 僕はどうにか人間に変身した。腕は元に戻らない。彼女の身体を、片手でそっと抱く。
 伝わってくる、彼女の停止した心を、忘れないように。
 静寂のかなたで、穢れない君を見つめても、遅すぎた言葉は、もう届かないね…。
 その時の僕は、泣いていただろうか…
「わかったよ。僕のマスター…君の望みのためなら、僕は生きる」
 僕はそのために、生まれてきたんだから。



「あ〜あ、結局俺ら何やねん? ただくたびれただけかあ?」
「まあまあ…どうにかなったし。ね。あの人倒したら、後味悪すぎ」
「まあな。とりあえず館林呼んどこか? 怪我しすぎやねん、どっちも。紙なんか焦げてるで〜」
「にしても、事後処理が大変だなこれは…マスターが何とかしてくれるか?」
「そんなの、あいつに弁償させとけ! 壊したのはあいつだろう」
「サックー、根に持ってる? 男らしくにゃーい」
 急に気の抜けたような、そんな会話を聞きながら……。

「ねえ、見に来てよ。新曲書いたんだからさあ」
「あいあい、また今度な」
「ひど〜い! いっつもそう言う!」
 ノートパソコンから顔も上げずに、透明人間の透野隠さんが気のない返事を返してくる。彼もプライベートで仕事が忙しいらしいから、まあ仕方がない。にしても、どうして他の人も聞き流してるんだ?
 隅で咲羅紅之助(サックー)が、まったく関係ないといった顔でグラスを傾けている。いつも着流しの変な人だけど、正体は綺麗な桜の絵。カウンターにいる真棹秤子さんと、松浦永さんは2人で喋っている。永さんは猫娘で、外見から何となく想像はつきそうだ。もっとも、普通の人間にはそんなこと想像もつかないだろう。
 そして常連のもう1人、通称『伯爵』…ヴァンパイアのフェルナンド氏は、そもそもここにいない。
 どうしてこの僕の歌の良さがわからないのか、どうにも理解できない。
「ちぇ、あとで後悔したって知らないよ。サインあげないからね」
「あいあい、また今度な」
「………」
 何にせよ僕は、すっかり馴染んでしまったようだ。
 すすきのにありがちなBAR『タリウス』。ごく普通のBARにみえるそこは、実はすごい秘密を持っている。ここの常連は、みんな僕と同類。現代、妖怪達は街の中で、人間に混じって生活している…ここはそんな妖怪達の情報交換の場、いわゆる『ネットワーク』なんだ。僕は札幌にいても、そんなこと少しも知らなかった。
 もっと前に彼らに会っていたなら、あるいは…。
 あんなに暴れた僕を、彼らはすんなり自分たちのネットワークに迎え入れてくれた。(もっとも、サックーはかなり複雑だったようだけど)僕たちは、人の想いから生まれる存在だ。その中には、不幸にも負の想いから生まれる存在もいて、人に危害を加えたりする。そういうトラブルは同じ妖怪でないと解決できない。僕の力も、それに役に立つと言うわけだ。
 そう、あの時も彼らは他のネットワークとの協力で、日本各地で女性を魅了し惨殺した『サディケル』を追っていたんだ。奴は様々な姿に化け、おまけに妖気まで隠蔽するからなかなか尻尾をつかめなかったそうだ。その『サディケル』が獲物に選んだのが彩音で、そこにたまたま僕がいた…。
 そんな経緯で、僕は『タリウス』にいる。みんなちょっと変だけど、とてもいい人たちだ。正体から気が許せる人たちがいるってことは、精神的にかなり楽になる。たぶんみんな、同じ想いでここにいるんだろう。ヒトにない力があるだけ、背負うものがあるから。
 そして僕は、ここにいれば、彼女の望みに近づけるから…。
 僕は立ち上がった。
「…もういいよ。じゃあ、行って来る」
「ああ、hato?」
 相変わらずパソコンを見たまま…何かヤバイところにハッキングしてるらしい…隠さんが声をかけてくる。『hato』…僕を龍と呼ぶのは、ごく限られている。
「おまえ、あのコの病院訊かへんの? 俺知ってるけど…行かんでええのか?」
 …何もこんな時に…。
「……いいんだ。今の僕は、今の彼女に会わない方がいいんだ。でも、いつか…」
「…そうか。なら、何も言わへん。その歌が、彼女に届くとええな」
「ありがとう」
 僕はカウンターに乗せていたクリスタルを拾い、タリウスを出る。スフィンクスらしい(正体は、誰も見たことないそうだ)マスターのエリシュさんが、ぼんやりした声で「いってらっしゃい」を言うのを聞きながら…。
 首に下げたクリスタルは、服の下で見えない。



「…まだ、あの『望み』に縛られているのか。ヒトに「光」をもたらすもの…つまらん理想だな」
「まあな、若いときってそうやったろ。hatoにもそのうちわかるって。今はそれでもええねん」
「全てのヒトが幸せになれる…そんなことができるなら、サディケルのようなのが生まれるはずはない。幸せって、必ず他人の幸せとぶつかるものね…。ね、あれ本当に彩音さんの願いだったの? だって、彼女……」
「…ええやん。それでhatoが、目的を持てるんやったら…そのうちわかるって、そのうち、な」

 彼女のいないライブ。何か大きな穴があいたようなライブ。でも、僕は歌いつづける。彼女もそれを望む、と思うから。
 そして熱狂してくれるヒトがいるから。せめて人間らしい僕を認めてもらえた証。
「それじゃあ、次行くぜ! …Cureless!」
 一つの生き物のような歓声。この快感だけは忘れないだろう。
 僕は前奏のタイミングを計り、マイクを握る。その歌に込めた思いに、気づくヒトはたぶんいない。でもそれでもいい。僕は歌い続けるだろう。
 いつか、彼女のこころに僕の歌が届くように。


〜Curtain fall〜


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