果ての猶予

 十月も、半ば。ひっそりと北の大地に降り立った紅葉前線は、静かに歩みを進めはじめている。貸しビルの最上階 ── といっても五階だが ── にある、Barタリウスの窓を占める空の色も夏より薄く透けた青。この青にも瞬く間に朱が滲み藍が刷かれ、闇が降りる。
 夏は駆け足で過ぎ去って、もう背中も見えない。風が孕む冷気は今が秋だということよりも、迫りくる冬の訪れを感じさせた。
「歳をとると時の流れがはやいですねぇ」
 雇われマスター兼バーテンダー、エリシュがしみじみと口にのせた言葉に、礼を言いながらコートを久世水見に渡していた ── エリシュに季節に思い起こさせた客が、不満げに眉を寄せる。
「マスターにそれ言われたら、俺には何のいいようもないですよ」
 マスターの時間の流れ方なんて想像もつかないや。と、本来の持ち主が日頃さっくりと着こなしている、さり気なく仕立のいいスーツを身に纏い、結果あっさり着負けしている都築理隆は続ける。
 いつもののほほんとした微笑みの苦笑比率をやや上げて、それほどでもないんですけれど、と呟いてみても、返ってくるのは縁なし眼鏡のレンズ越しの胡乱気な眼差し。素直に頷くにはいささか年期が違い過ぎる。
 意識して数えなくなってから、ずいぶんと経ちましたし。そう理由をつけて具体的な年齢を明かしていないエリシュだが、『タリウス』の最年長であることは確実であり、結果として先日めでたく二十歳を迎えた理隆とは少なくとも二桁の差がある事が導き出される。
 人間の想像を絶すると思ったっていいじゃないか。など、六歳年上の姉に『年上は敬うべし』と刷り込まれた理隆は、年上どころではない相手の尋常の無さに溜息をつく。
 それは『人間』である理隆と、エリシュをはじめとするタリウスの従業員・常連諸氏 ── ひとならぬ『妖怪』との埋め難い差異のひとつだ。普段は血液型の違い程度にしか考えていない理隆だが、それでもO型の人間はO型の人間からしか輸血出来ないのは事実だ、と思う。
 拗ねた様子を隠さずに、カウンターに据えられたスツールに腰を下ろして見上げてくる視線を微笑みでかわして、エリシュは彼の手許にマグカップを滑らせる。中を目にして理隆が軽く呻いた。
「俺、ちゃんとコーヒーって言いましたよね」
「都築くんも、れんさんも飲み過ぎるくらい飲んでるでしょう」
「ココアの匂いって緊迫感を削ぎません?」
「都築くんが緊迫感漲らせてどおするんです?」
「いや、スーツに匂いがうつったりとか」
「みんなで和めていいですねぇ」
「………」
 エリシュのほにゃりとした笑顔を前に、言い負けたというより「まあいいや」といった風情で、理隆は熱いマグを両手で包み、はふはふ吹いて冷ましながら口にする。
 「よくできました」とでも言いたげな、ひとの悪さを覗かせるエリシュの横顔に、レジに入っていた水見が目を止めた。しばしの観察の後、本日、父魂を伴に手間のかかる方の弟とその御主人様に気合いを入れ ── 面倒を見に ── 行っているタリウス全方位突っ込み役、真棹秤子の置いていったパズル雑誌に視線戻す。
 だから誰も気がつかなかった。エリシュの微笑がひどく優し気で、静かなものに変わったことに。

 店員二人客一人の店内に、いつものごとく響くまるみを帯びたカウベルの音。この時間なら咲羅さんかな、と常連以外の客が訪れることを始めから除外して理隆は推測する。想定した、いつもの「いらっしゃいませ」の声は、ふいに理隆の頭上で途切れた。水見が雑誌を閉じる乾いた紙の音、扉が軋んだ音を立てて閉まる。
 理隆がマグカップの中の揺れるココアから顔をあげて見つけたのは、秤子でさえめったに見ることのないエリシュの強張った表情だった。唇が音を発さずに震える。固まった視線を追い掛けた先には、黒い革のコートを羽織った見知らぬ女。
 肌は白、肩に触れない位置で切りそろえられた髪と、瞳は漆黒、ただし顔だちは日本人外。身に宿る色合いと印象は異なりながらも、エリシュに似た造作は問題なく美人の範疇に入る。『美人ではあるが、美貌というには気合いが足りない』── 所属大学の某教授のエリシュへの勝手な評を理隆はぼんやりと思い出す。
 女は迷わぬ足取りでエリシュに近付き、艶やかに笑った。同時に、振り上げられた右腕が綺麗に撓る。
 意図を掴むのに一拍かかった理隆がスツールから立ち上がる。間に合わないと確信した、エリシュの頬を目掛けて振り下ろされた手のひらは、音を発することなく止まっていた。
「不意打ちは卑怯です」
 感情を含む余地のない硬質な声が、彼女にとっての真理を紡ぐ。女は水見に掴まれた自分の手首から鮮やかな色で塗られた爪を経て、あと僅かの距離にある顔を見据えた。
「随分と店員教育が行き届いているのね。エリシュ」
「貴方も暫く働きますか? 常識を身につけるにはうってつけですよ」
 スツールに座り直した理隆が、人畜無害な好青年の笑顔ですかさず喧嘩を売り返す。首だけを動かして、理隆を映した女の瞳が値踏みするように細められた。
「人間の常識に測られたくはないわね」
 吐き捨てられた言葉に怒りを覚える自分を、理隆は明確に認識する。放ってはおけない言葉だ。こちらこそ、『人間』ということだけで測られたくはない。
「すべての理性ある生きものの共通認識じゃないですか?」
 理隆が自分を苛立たせる総てのものに常に臨戦体制で臨んでいたのは、そう昔のことではない。戦い方は覚えている。まれにディベート相手に嫌われるという、副作用をおこすくらいには。
「理性?」
 赤い唇が楽し気に歪む。ひとことひとことが重くなる。女の瞳が西日を受けて琥珀に透ける。総ての要素が無形の圧力を生成する。
「理性の何たるかも分からぬものが、その重みも知らず口にするのか」
 「じゃあ貴方は分かるっていうんですか」── と、反射的に切り返そうとして凍りつく。その次が、返せない。
 慌てて別の答えを探そうとして、けれども思考は上滑りして、絡む。言葉が思考を縛り、縛られた思考は体をも。
「……っ」
 いら立ちを紛らわせるため組もうとした指先は、理隆の意志に反して動かない。顔に現れた焦りを見取って、女は柔らかく微笑んだ。
 綻んだ唇から溢れる言葉は、理隆の理解の外にあるものだ。ゆったりと歌のような音律で紡がれる、それは、間違いなく真理の一つ。
 「ねぇ、わからないでしょう?」── 雄弁に語る瞳。穏やかな表情は、エリシュの面差しに似て。聞き分けのない子どもをたしなめる教師のように、母親のように ── 始めから理解を拒む。
 違う、のに、重なる部分ばかりが目について、理隆はぎりと奥歯を噛み締めた。女の笑みが満足そうに深くなる。始めから勝負はついていたのかも知れない、相手が悪い。理隆の読みが外れていなければ、この人物は。
「姉さん」
 静かに、先ほどは音にならなかった単語を今度はきちりと声にして、エリシュは女の注意を自分に向ける。触れる飾り気のない指先で、女の手首を戒めていた水見の指を解き、伏目がちに微笑んで。顔を上げた瞬間、そこにあるのはいつもの表情。
「分かりきった結果を引き出して、何処が満たされるというのです?」
 何の含みも感じられない声に、『姉』と呼ばれた女は眉を寄せる。
「郷に入れば郷に従え、ということ?」
「いえ」
 柔らかく柔らかく、いっそ無邪気とさえいえる声音。
「余裕のないことだ。と、思っただけです」
 あまりの直球勝負に女の肩がピクリと動く。
「でも、昔からサスティ姉様は何ごとにも一生懸命なひとでしたから。何も、変わりなく、お元気そうでなによりです」
 どこかに含みを持った言葉の中身とうらはらな、毒気を抜く笑顔を投げかけられて、女 ── サスティは口の片端だけをつり上げる。
「アンタも元気そうで何よりだわ。今までで一番の『サスティ姉様』、よ。……さて」
 頬にかかった髪を払った指先を腰に当てて、サスティは首を傾ける。
「一生懸命なサスティ姉さんは、実力行使も辞さないのだけれど?」
「店内は乱闘禁止です」
「一撃なら乱闘にならないわ」
 サスティは淡々とした水見の事実確認をこともなげに一蹴する。
「一撃は嫌ですねぇ」
「……マスター」
 微かにこもった諌める響きは、何を止めようとするものなのか判別がつかない。「大人しく一撃食らってください」なんて言われたらどうしましょう。思いながらエリシュはカウンターの中から出、水見の横をすり抜ける。
「すぐに戻ってきます。すこし、店をお願いしますね」
 「少し、ね」と呟くサスティを視線だけで促して、エリシュは水見の返答を待たず、店と通路を隔てるドアのノブに手をかける。
 かろん。とカウベルの音が響き、二人の女は店の中を振り返る事なくドアの向こうに姿を消した。

 大きくとられた窓から、橙の夕陽が差し込み始める。表情の乏しい顔に、うっすらと『不本意』の主張をのせてドアを見つめていた水見は、マグカップがカウンターテーブルに叩き付けられた音に振り返った。
 「物は大切に扱って下さい」と一声掛けようとして、口をつぐむ。代わりに思うのは、「今日は珍しいものばかり見る」ということ。
 冷めたココアを飲み干した理隆が、険しい表情で指先を曲げ伸ばししていた。水見の知る限り都築理隆という人物は、お花見桜暁嶋桜里にはかなわないまでも表情の良く変わる ── それも明るい方に ── 人間である。
 今日のように拗ねてみせるときも、時に言葉遊びのような、時に真剣な論議を交しているときも、秤子のキツイつっこみに困った顔をするときも、いつも。水見の知っている『理隆らしさ』とでもいうものが、今の彼からは剥がれ落ちているようだった。
 それが何なのか水見には分からない。ただ、秤子が『少年臭さ』と評すそれが抜けた理隆が、大人びて見えることは確実だった。そして何故かその事実を、『よくないこと』だと感じる自分がいることも。
 理隆は開閉していた手をぎゅっと握り締めると、二人が消えたドアへと向かう。足に変に力の入った歩き方だと水見は思う。
 ドアの前、唐突に理隆が水見を見やった。水見が口にしようとしていた言葉を根こそぎ奪うタイミングで、強張った頬が僅かに緩む。
「すぐに、帰ってくるから」
 平淡な声で告げて、そのままの表情でひとつ間を挟む。思い出したように「だからツケといたりしなくていいからね」と付け加え、理隆は自分と『不可解』と顔に書いた水見とを、ドアの一枚板で遮断した。

 ひとりの廊下はひどく寒く、そして静かだ。何故だろう、と理隆は考える。寒いのは仕方がないとしても、廊下の方が世界に対してより開かれている場所なのに。
 ── どうして静かなんだろう。
 耳に残っているカウベルの音を思い出しながら、ゆっくりと握り締めていた拳を開く。手のひらに残る、微かな爪痕。薄くなっていくそれに位置をあわせて、再び指先を握りこんだ。
 当然の摂理で生まれる痛み。強く強く。込める力に比例して、訴えてくる痛覚。
 吐息とともに、かくり、と手首から力が抜けた。今、爪短いんだよなぁと弛緩した指先を見て思う。
「やめようと思ってたんだけどなぁ、こういうの」
 痛みで思いの強さを測るなんていうのは意味がない。少なくとも自分の場合は。失望するだけなのだから。
 痛みを意識してしまえば、それ以上先には進めない。痛みを意識から追い出せるほど、なにかに心を捧げきることは出来ない。いつだって先を読んで、一番傷付かない方法を探す。無理なことは理由をつけて捨て去る。『あきらめが良すぎる』と評される自分。
 つまらない人間だと思いながら、等しく存在する安堵。── 目に見える傷跡を作るのなんて、まっぴら御免。なのだ。
「ただ、さ。なんていうかもう少し」
 避けてばかりの『傷つかなさ』じゃ進歩はなくて。
「足掻いてみるんじゃなかったのかな。全く……」
 息を吐いて、瞼を閉じて息を吸って、吐いて、眼を見開いて理隆は足を進める。
 今は、自分の判断の何処が理性なのか、何処に理性があるのかなんて分からなくていいから。

 階段を上った先にある、屋上に続く扉は相変わらず理隆が押しても動かない。独立した意識を持つ半妖怪である『彼女』は、基本的に落下防止フェンスのない屋上への人間の侵入を拒む。ただ、『保護者付き』ならば許可は出るので、夏の花火を見ながらビアガーデン状態や七夕には理隆も入ることが出来たのだが。
「屋上に居ないってことはないよね」
 だったら間抜けだなー。と呟きながら、理隆はその仮説を信じてはいない。根拠はなくても、勘を否定はしない。
 ノブを掴んでいない左の手のひらを扉にすべらせる。額をつけて体重を預ければ金属の冷たさが、思考を冷やしていく。
「ってことは、マスターが出入り禁止にしてるってことかな」
 人を巻き込むような戦闘でもしているのか、よほど聞かれたくない話でもしているのか。
「取っ組み合いの姉妹喧嘩だったら笑うなぁ……」
 声に出して、本当に少し笑った。『彼女』は何も言わない、何の反応もしない。エリシュや秤子はその意を汲み取ることが出来るようだが、何の力も持たない理隆では自分の言葉が伝わっているのかも分からない。交渉の状況としては、最低。
「でもまあ。本当に自分の気持ちを伝えるときは、相手の顔色伺ったりする必要はないんだろうけど」
 自分自身の思いに自信があるのなら。
「けど……言葉にならないんだよね。悔しいことに」
 そもそも何がしたいのかも分からない。妖怪同士の戦闘に割り込むような、恐れ知らずでもないし。
「好奇心。なのかなぁ。結局の所」
 褒められるような、誇れるような、立派な理由じゃない。
「……マスターが、あんな顔するなんて、思ってなかったんだ」
 思い出す。エリシュの強張った表情。理隆にとっても、それは不意打ちの衝撃だった。
「マスターにとって怖いものなんて、秤子さんしかないと思ってたからさ」
 溜息。自分の幻想は真実ではない。けれど失望するなら自分。
「悔しさも、あるなぁ。それこそ秤子さんだったらお姉さん叩き出すなり、マスターを叩き出すなり……しておきながら普通に、帰ってくるマスターを迎えられると思うんだ」
 でも、と、けれどもを重ねて、理隆は自分を探す。
「俺はそこまでマスターのこと知らないし、悟ってもいないし。何かが出来ると思ってもいないし、役に立つとは思えないし。── 今は」
 だから、いつかは。いつかには必ず。
「今は、居ても立ってもいられずに、焦ってるだけだ」
 うわぁ。と、口にした言葉の余りの情けなさに嘆息した瞬間に、身体が支えを失って傾いた。

「え。あ。……っ」
 勢いのまま屋上に一歩踏み込んで、吹き付けてくる風の冷たさに身を竦める。空の色は随分と、藍色が広く場所をとりつつあった。
 何がよかったのやらと首を捻りながら、理隆は礼を囁いて扉から ──『彼女』から ── 手を放す。視界内に二人の姿はないが、風の音に紛れて声が切れ切れに届いてくる。
 革靴の足音を殺し、手を添えながら壁沿いに歩けば、それは夕陽の方角。茜色の空、緋色の斑模様が浮かぶ山並、山より一足早く秋の色に染まった街、暖色を背景にした二つのモノトーンの後ろ姿。
 神々の黄昏、というのは言い過ぎかもしれない。それでも、この風景の中に居るものは遥かな時を経てきた存在だ、と閃くように感じて、理隆は息を止める。
「……本当に、人間は区切りが好きなのね。去年千年期だと騒いでみれば、今年は新世紀。はっきりと分ってもいない一人の思想家の生年を基準にして、何の特別だというのかしら」
 黒い革のコートが翻る。風に流れる黒髪を押さえながらサスティが振り返った。視線が理隆を撫でていったが、彼女は表情を動かさなかった。
「儚い時間を更に輪切りにして、楽しいのかしらとも思うけれど、否定するつもりはないわ。むしろ肯定する」
 『二人』での話なのに、サスティが連ねる言葉は正確な発音の日本語。それは知識の守護者たちの意向であるのか、それとも ── 未だ『言葉』が有効であるからなのか。
「猶予期間は永遠じゃないわ。分っているのでしょう?」
 吹き荒ぶ風に揺るぎなく立つ白いシャツと黒いロングタイトの後姿は、黙して答えない。
「こんな東の果てで、一体何が見つけられる? アンタ一人の問題じゃないわ。彼をいつまでも名無しのままにしておくの?」
「……彼は、分っています」
 風の中で初めての響いたエリシュの声に、鋭利な響きが叩き付けられる。
「甘えんじゃないわよ。なら、私にも分からせてみなさい」
 風を従えて、サスティがエリシュとの間を詰める。容赦なく体温を奪う北風に一片もかき消されず、ふいに言葉は放たれた。
「戻ります。必ず」
 決然と厳然と。二年と数カ月の間理隆が聞いてきたどの言葉より声より、込められた何もかもが重く。乱れる大気を切り裂いて、胸を貫いて。
「訳も何も話さずに、それで納得させるつもり……?」
 気押された様子を隠せず、サスティは呻くように問い掛けた。
「信じられませんか?」
 「意味のない質問しないでよ」と力なく吐き出し、サスティは『妹』を眺めて嘆息する。
「アンタは……そうやって、変わったくせに変わらない顔をしてみせるのね」
 理隆からは、見ることは出来ないエリシュの表情。
「姉さんが、変わっていないと思ったからです」
「甘えんじゃないわよ、本当に」
 サスティは軽く首を振ると、ひとつ舌打ちする。溜息ももうひとつ、空に溶けさせて。
「それだけ覚悟があるんだったら、適当に帰ってきたりしないで頂戴。もう勝手にしなさい。見放しといてあげるから」
 呆れとその他様々の思いが混ぜこんだ早口を投げて、サスティは東の果ての国の、一つの地方都市の、雑多な繁華街の中にある、なんてことのない貸しビルを後にするために歩き出す。
「あ」
「それと、従業員教育はいいようだけれど、きちんと客も選ぶことね」
 25年来の右腕と等しくどこか捻くれている姉の背を追って、身体を反転させたエリシュはサスティの科白と、その先に立つ人物の存在に礼の言葉を途切れさせる。エリシュと理隆の間、理隆の横、後ろと位置を移しながら、サスティは最後まで理隆を意識した動きをすることはなく。理隆もまた、サスティに視線を向けはしなかった。

 高い足音が途切れ、理隆の後ろで扉が閉まる。とうとう「ありがとうございます」を言い損ねてしまったエリシュが浮かべているのは、理隆の良く知る柔らかい困り顔。
「ええと。……都築くん、寒くないですか?」
 ただ二人だけ、向かい合ったまま風の音を聞く形になって、先に沈黙を破ったエリシュの口調は、サスティとのやりとりが嘘のような戸惑い混じりのものだった。隙だらけの声音に理隆は複雑な気分で複雑な思考に陥る。
「マスターの方こそ。見てるこっちが寒いです」
「そおですか? なんだか頭に血がのぼってたみたいで体感が変ですねぇ」
 とりあえずと、理隆が呆れた様子で息を吐けば、エリシュはぼけぼけの調子でぼけぼけの内容を口にして、風を孕んでぱたぱたと鳴るシャツの袖を押さえる。
 「マスターは血がのぼる方なんですね……」と答えを求めず呟き、理隆は暖かさがひいていく自分の心臓を思う。エリシュは小さく首を傾けた。
「都築くん、時間まだありますか。お店に戻ってあたたかいものでも飲みましょう」
「『身体をあっためるにはお酒が一番なの〜』って一人でアルコール入れたりしないでしょうね」
「……おーりちゃんじゃないですから」
 「そんなこと言いませんししませんよー」と怪しげな間で返すエリシュ。いつもと同じ空気、いつもと同じ会話。イレギュラーな来客があったことを打ち消すような。けれども、残していったものは深く見えないところに確かに存在する。目に見えない、風に攫われない、空間に張られた駆け引きの糸。
「どうかなぁー」
 少しエリシュを待って二人並んで歩きながら、理隆はいつもの調子を維持し続ける。あくまでも日常の延長の話題であるように。
「お姉さんは寒くなかったんですかねぇ?」
「……寒いのには、あまり強くはないと思いますけど」
「マスターもですか?」
 薄い紗のような、瞬間の思考時間。
「みんなには、内緒にしておいてくださいね」
 声に載せられた苦笑を感じながら、理隆は自分にとって大切なことだけを計算してゆく。
「みんなってどの範囲です? 秤子さんにも?」
 笑い混じりで、問い掛ける。
「そうですね」
 何でもない言葉に込められる、とても静かな感情。
「しょおこちゃんはわかってますから」
 ふつりと、切られる糸。
 理隆を先にビルの中に入れようとエリシュが左手で開けようとしたドアは、寄り掛かるような理隆の右腕に押さえられていた。スーツに包まれた細身の身体が北風を阻み、気流が入り込む隙もない二人の間に凪が生まれる。
「帰るんですか」
 いつもより低い声に顔を見上げ、見下ろしてくる真直ぐな眼差しにぶつかって、エリシュはノブを握った手に視線を落とした。
「ええ。いつかは」
 短い一言。理隆は、このひとにとって其処は『帰る』場所なのだと悟る。エリシュは『帰る』という意味を、突き付けられたように胸に刻み込む。
「いつか、帰ります。その時まではここを離れるつもりはありません。誰にも、引き摺られて連れ戻されるなんてことにはなりません。わたしが決めることです」
 理隆はサスティに向けられたのと同質の響きに生まれた、今現在自分がエリシュの意志を阻んでいるという不安を、握りつぶす。
「分からないんですか? 何百年先かも、明日かも」
「そうですね、まだ特には」
 殺しきれない感情をすくいとって、エリシュは身体から力を抜いた。
「約束、分ってますよね」
 「覚えてますよね?」とは聞かれない、二年前の夏に交された約束。理隆が今、こうして居られる理由の、一端。
「大丈夫ですよ」
 少し寄せられた眉を見上げて、そこはかとなく人の悪い顔で、笑う。
「都築くんが、しょおこちゃんがぐうの音も出せないような男の人になるまでは帰りませんから」
 がくり、と理隆の肩が下がった。
「なんか、それって酷い言いような気が」
 「本当にになったらどうします?」とは聞けなかった。考えれば出る答えだ。それを言葉にすることも、その言葉を耳にすることもお互いに望んではいない。
 エリシュはくすくす笑うと、眩しそうに眼を細めて落ちた肩をぽむと叩いた。
「背、伸びましたね。都築くん」
 二年前にはヒールを履いたエリシュと、そう身長差はなかったはずなのに。
「結構今更なんですけどー」
「気がつかなかったんですよ、都築くんとは座って話をすることが多いじゃないですか」
 理隆は本日何回目になるか分からない溜息をついて、それでも笑いながら顔をあげた。
「いいですか。俺、とりあえず、秤子さんをきっぱり見下ろすところから始めますよ」

 永遠なのだと思っていた。自分がこの先、ひたすらに年を重ねても、死んで消えて誰の記憶にもない日が来ても、この場所は変わらないと。
 この場所が、自分を覚えているだろうと。
(しみじみ甘えてるよなぁ)
 特殊なものに価値を見い出して縋るなら、それは宗教と変わらない。そんな在り方を望んでいる訳じゃない。
(よかったじゃないか。ここから、またスタートだ)
 終わりが定められている永遠なんていらない。そんなものに頼ってはいられない。
 人間らしく、我侭に走り続けると決めたのだから。


 扉を閉めながら、いつもよりも大きく見える背中を見ていた。
『一体何が見つけられる?』
 何かを、見つけたい訳じゃない。見ていたいだけ、傍に居たいだけ。
 伸びてゆく精神、磨かれる力。変わりゆく街並、うつろう季節。
(── そうしていないと、忘れてしまうから?)
 歳を数えるのはやめてしまった。けれど、自分の内側が音を立てて崩れた日を、克明に覚えている。
 声にされない名前、心の底で呼び掛けて。
(百年目の冬、です)
 星が瞬き始めた空に浮かび上がる輪郭を払うために、エリシュはそっとノブを離した。


  永遠に比せば、無限小の一日、一分、一秒。
  停滞と看做せても、真実停止している訳ではないから。
  針は止まらない。刻んで刻まれて時は流れ続ける。


 ── 翌、2000年10月18日。札幌市街の空には、初雪が舞っていた。


......Fade out.



*あとがきのようなもの*