知り過ぎた死者1

【Chapter 1. CALL(to&from)HIDINGMAN】
 ひっきりなしに叫ぶ電話のベルの金切り声、ひっきりなしに飛び交う怒声。地を這い紙の上を這うペンの囁き、地を這い唐突に跳ね上がる呻き。いら立ちを込めて叩かれたキーの呟き、いら立ちを込めて叩かれた何かの、嘆き。
 何の洒落っ気も無く効率だけを重視して並べられたスチールのデスクの上に、ときに整理され大抵雑多に散らばるファイルや写真、そして何種かに分類される原稿用紙。
 一種は空白の升が連なるもの、また一つは文字で埋っているもの。更にそれに朱が入り、そのうえに青や緑の書き込みやら、附箋やら外れかけたクリップでぎりぎり留まっている写真なんかがおまけとしてもれなくついているものもある。
 窓は外気との気温差で白く曇り、室内はニコチン中毒者の吐息で灰色に濁る。
 花の都、不夜城都市トーキョーの一角の一画の一角、マイナーな出版社の入ったビルの一室。洒落たギョーカイドラマのセットとは対極にある年末進行締切当日の雑誌編集部という名の地獄で、編集長(エンマ)に原稿(タマシイ)を提出しようと道を切り開いていた透野 隠は、後ろからいきなり容赦無く、襟首を引っ張られた。
「ぐはぁっ!?」
 地獄に響いたその苦悶の声に何人かの肩がぴくりと動いたが、視線を向ける者はいなかった。獄卒達は己の抱えているもので頭も手も一杯らしい。
 声をあげた隠といえば、体勢を崩しながらも両腕に抱えた原稿の束を死守したことに、我ながらたいしたプロ根性やと密かな満足感に浸りつつ、身体を捻って襟首を掴んだ相手を見、尋ねる。
「なんなんすか、いきなり」
 何処か嘘っぽい関西弁風のイントネーションに、白髪混じりの頭を短く刈った編集部最年長者の通称おやっさん、加賀美喜久雄(カガミキクオ)は無言でクリーム色の受話器を突き付ける。もう一方の手は未だ隠の襟首を猫を扱うかのごとく掴んだままだから、獄卒と罪人の蠢く奈落の様は電話回線の向こうにも届いているに違いない。
 隠がかさ張る原稿を左腕一本に抱え直し右手を伸ばしかけたところで、おやっさんが両手を離した。隠の指先を掠めて落下した受話器がちょうど話口からデスクの引き出しにぶつかり、即席の銅鑼になる。
「げ。」
 趣深い余韻を残して高らかに響き渡ったその音は、編集部室中のざわめきを奪う快挙を成し遂げた。煙草の煙がただ揺るやかに立ち上るのみの一拍の後、編集長荊木資生(イバラギタカオ)が机に両手をついて、ゆらりと立ち上がる。痩せぎすで細面の閻魔様は、むしろ責苦に疲れ果てた亡者ように見えた。少なくとも、この瞬間は。
 邪魔になったためだろう、ネクタイの先を背中に向けて払い掛けた肩が最高点まで達したところで、編集長が伏せていた顔をくっとあげた。下に隈の定着した爛々と光る目が室内を見渡して、中空で止まる。
 どだがだんっ。と即席の銅鑼に負けない音量が机に叩き付けられた握り拳から発生した。八十二時間前から机の上に鎮座し続け、四時間半前にインスタントコーヒーが切れたために空になっていた、どこかの会社のロゴの入ったステンレス製のマグカップが、振動に負けて跳ね上がり、落下し、机にぶつかって再び跳ね上がると、床に向かってダイブする。
 マグカップが紙束の山と机の地平線に消えたのと同時に隠も床に座り込んだ。タカオさんのあの目に睨まれたら石化しかねん、と本気で思う。柄にもなく十字をきった隠の耳にマグカップが床にぶつかった音が届いた。編集長が陶器のマグカップを使わないのは、締切の度に取り替える羽目になるからだ、とは獄卒達の共通認識である。
 床に転がったまま顧みられないマグカップの境遇に妙に共感しながら、隠は捻れたコードの先の、未だに揺れる受話器を手にする。感覚よりも時間は流れていないようだ、電話線の向こうとこちらとでは時間の密度が違うらしい。
「ったー。ナニやってっんのかな、耳潰れちまう」
 漏れ出てくる銅鑼の音に悪態をつくいかにも軽い調子のいい声は、聞き覚えがあり聞き慣れていて、最近聞いていなかった声だ。
 隠は周りに声が響かないように気を配りながらも、ひとつ息を吸って思いきり口を開いた。
「何やってっかはオノレの方やろがっ!!」
「あぁ? だーかーら。オレの耳潰す気? トーノさん」
 吐き出した怒鳴り声に相手が堪えた様子はない。もっとも隠もこの程度で向こう側の人物が殊勝になるとも思っていないのだが。
「オレ、おやっさんと違ってワカイからそんな叫ばなくっても聞こえるよ。それとも思わず叫んじゃうくらいオレの声聞けて嬉しいとか?」
 それでも叫ばずには居られない心情というのは存在する。
「じゃかーしいわっ!! 行方くらましとったオノレの穴埋めの為に俺がどれほどくろーしたと思ってんねんっ」
「あ、流石に穴になっちゃったか、ふーん。よかったじゃん仕事回してもらえて。シゴトが増えるのは名を売るチャンスが増えるってことでしょー。感謝しな」
「5日間で取材から何からした俺の立場になって考えぃっ! 冬になったら帰るっつったんは何処のドイツやこの阿呆っ」
「東京の冬は冬じゃないよね。こっちに来たらしみじみ実感できてさ」
「ならそっちの冬は冬なんやないか、連絡ぐらいいれろっちゅーねん」
「連絡? それはねー仕方ナイのよ。ホラ北海道には電話ないから」
「北海道の皆様に失礼なことをゆーな。郵便、電報その他諸々ありとあらゆる手段を使ってみんかボケ」
「あれ、届いてないんだ? 連絡船が沈んだのかなぁ」
「……オノレはモールス信号でも打っとれや……」
 のれんに腕押し、糠に釘。蛙のツラに水等々の単語をコイツとつきあってから何度思ったことだろうか。先にエネルギーが切れて溜息をつくのは常にこちらである。まずは体勢を立て直すべきかと、原稿用紙の散らばる床に腰を下ろした。銅鑼の音と編集長の握りこぶしが生んだ静寂から復活した地獄の喧噪が頭上を飛び交う。
「ったく、編集長(タカオさん)が電話取っとったらどないするつもりやったんや?」
「そのときはそのとき。結局そんな仮定イミないし。ほら、オレの日頃の行いってヤツ? 何だかんだ言ってもおやっさんいいひとだよねー」
「オノレの日頃の行いがなんだっちゅーねん。よほど地道に生きてるこっちが、いきなり襟首引っ張られる目におーたわ」
 一瞬詰った喉の感覚を思い返し、改めて襟元を崩して喉仏の下をさする。編集長のように糊の効いたワイシャツなんぞ着ようものなら、流血沙汰になっていたに違いない。
「いーじゃんエリクビ。どーせトーノさん、ネクタイもシャツのボタンもちゃんとしてないんだしさ〜」
 やはりネクタイはぶら下げとくもんや。と、隠が己の考えの正しさを再認識した瞬間に、あからさまにやる気のない、人を小馬鹿にした響きが受話器からもれて出てきた。
「いちいちやかましーなぁ。なんやオノレ、俺のポリシーにケチつけるために電話してきたんか、怒るでいいかげん」
 あからさまに憮然とした口調に、向こうもようやく危機感を抱いたらしい。
「ちょっと待ったっーぁ。今までのは只の挨拶、軽いジャブっ。前振りってヤツだって」
「聞く耳持たん。切る」
 火急の連絡が必要なほど大変なことになっているならかけ直してくるだろう。引き止める呼び声に、『ねるとん』が入るようならまだまだ大丈夫だ。
 今度は編集長の声を聞くがいい、時間は有効に使わねばならないのである。つきあっとれん、というヤツだ。うんうんと自分の考えに頷いて隠は立ち上がると、不毛な会話の発生源を耳から離した。
「ホントに待ってお願いトーノさん! 仕事、トーノさんにオレが依頼!! 力貸して欲しいんだよ」
「はぁ?」
 いつも飄々としている口調が半音下がって予想外の切迫さを帯びる。
「行き詰まったんだ。このままじゃ確証が取れない。だからトーノさんに来てほしいんだよ。『モグリの隠』の力が必要なんだ」
「待て、急にシリアスになるな。何がなんだっちゅーねんオイ」
 改めて耳もとに運んだ受話器から聞こえる電子音。
「ったー。わり、タイムアップ、テレカ切れる。小銭ないから又」
「おいっ。だから待てゆーとるだろうがコノ阿呆がぁ! ネタ振るだけふってハイさよならかっ小銭ぐらい用意しとけっ下らん前振りしとるからやで全くっ。これからのオノレの人生清く正しく過すために必要な忠告や、耳の穴かっぽじってよぉく聞いとけこのユズユズっ!!」
 訳も分からず振り回された礼とばかりに早口で捲し立てたのだが、どこまでを電話線で繋がっていた遥か向こうの相手 ── 柚木顕史(ユズキタカシ)が聞いていたかはわからない。隠の忠告には電話が、切れた後の独特の静寂で代返していた。
「ったくなんなんや?」
 呟いて受話器を置く。力を貸して欲しい……確証が、取れない?
 ここの編集室で扱うのは『確証』をとることが必要になるような記事じゃない。珍しい事件も一見何処にでもあるありふれた話も、思う存分適当に膨らませて面白可笑しくでっち上げる仕事だ。
 分かっていても真実にこだわってしまう隠と違って、柚木はそういったことを得意にしていたし、進んで書き散らしてきた。今回だって「適当に観光して寒くなる前には帰るさ」なんて大口を叩いて取材に出たくせに。
「ナニやっとるんや、アイツ」
 非常にらしくない。電話を見ながら会話を反芻しようとしていた隠を、強大な圧力を含んだ神経質な声が止める。
「透野」
「…………あ。」
 気がつけば、編集室中の視線が隠に刺さっていた。周りに聞こえないようにカケラも注意を払わなかった最後の一言は、気持ちよくそこらに響き渡っていたらしい。
 おやっさんがやれやれとでも言うように、肩を竦めて溜息をついた。北海道の事件を取材途中に所在不明になっていた柚木への風当たりは寒冷前線まっただ中の北風のごとく冷たいが、誰もが口に出さないだけで心配もまた、されているのだ。
「聞こえなかったか? 透野」
「ああぁぁっはいすいません荊木さん!」
 ただ一際大きなデスクの主だけがワープロの画面に顔を固定したまま、いつもと変わらぬ調子で話す。妙に静かになった分だけとおる声。
「なんで其所に立ったままなんだ。原稿、出来たんだろう。持ってこい」
「ああはい!!」
「五月蝿い。『ああ』は余計だ、俺だって叫ばなきゃ聞こえないほど歳じゃない」
 にべもない文句に何か引っ掛かるものを感じたが、隠はそれを深く考える暇もなく、当初の目的通り原稿の提出に向う。編集長の存在自体が放つシベリア寒気団も真っ青な殺気で、空気がペーパーナイフになりそうな感じだ。
 軽く一礼してデスクの上に原稿を置く。ファイルケースのわきにはにはいつの間にか、鉄色のマグカップが帰還していた。
 机の主は目の前に積まれた原稿を、生まれた時からのような渋面で睨み付け始める。大手の出版社から流されてきたと噂されている編集長は、内容などなきに等しい記事であっても校正の手をゆるめるようなマネはけしてしない。
 荊木編集長は順調に動いていた原稿用紙をめくる手をふと止め、眉間の皺を深くするとこめかみを赤ボールペンの尻で二回叩く。
「透野」
「はいっ」
 背筋をぴしと伸ばし、直立不動で言葉を待つ。額に冷や汗がつたう感触。
 心優しい閻魔様は原稿に目を落したまま、淡々と、しかしどこか楽し気に宣われた。
「土産は蟹でいい」

 雲とスモッグに覆われた空から朝の光がぼんやりと滲んでくる。苦闘の末まとめられた紙束はもう記者と編集者の手を離れた。今までの何回もと同じように、印刷所の諸氏と輪転機が臍を曲げない限りは無事発刊の運びとなる。
 早朝から夜の街に雪崩れ込む訳にも行かないので、打ち上げは忘年会もかねて翌日に行われることになった。気が早く、なおかつ独り身の気楽な若人は数時間前まで地獄だった編集室に缶ビールやツマミを持ち込んで、一足早く両手両足のある陸マグロへの道を邁進している。
 風呂に入る暇もなかった若い男どもが、一心不乱に酒を浴びているのもそれはそれで地獄絵図だが、若い娘達がやれ三高だと言い世間が上流志向への傾いてゆこうとも、隠は高級レストランでフランス料理のフルコースに付き合うくらいなら、地獄の宴会場に舞い戻った方がいいと思う。
 そんな地獄の宴会が嫌だった訳ではないが気がのらず、隠は早々に編集室を辞してきた。あてもなくふらふらと歩きながら、半端に白い、詩人の妻にないと言われた空を見上げて息をつく。
 何回経験しても締切後の朝は、メロウだ。いちいち充実感と満足と不満足と、販売冊数やら記事への批判の不安におののく立場でもないと、自分に苦笑して愛飲のハイライトに火をつけた。
 隠は正規の記者ではない。フリーライターと言えば聞こえはいいが、バイト扱いの何でも屋として拾ってもらったと言う方が正確だ。
 たいした学歴もない身では、払いと環境のいい職にはつけない。高い学歴を詐称するのは手間のかかる分、金もかかる。隠を見つけたものたちは『新入り』にそこまで手をかける程ボランティア精神に溢れていたわけではなかった。別にその事を恨みはしない。── 世間のなんたるかを知らず、知ろうとせず呑気に遊び呆ける学生やらを羨みはしても。
 戸籍は偽造、学歴はない、財産もない、家族もない、社会的な立場なんてある訳がない。そもそも ── 透野 隠は人間ではない。
 思えば、別の生き方もあったはずだ。けれども隠は人間社会で暮らすことを望んだ。その選択から時が流れ、時折『人間』との明確な違いを感じながらも、自分は彼らより、より人間に近いものであるという感覚は今も変わらない。
 都会の潤いというには気慰め程度の緑しかない ── この季節には『緑』ですらありえない ── 公園のベンチに腰をおろし、空に向って煙を吐き出した。変に乾燥した風がコートの裾を乱し、煙を流して白い空に溶けさせる。
 何も持たないだけ並の人間より自由なはずなのに、いつだって隠はこの空の下、この何もかもを飲み込む混沌の街の中にいる。
 ──『東京の冬は冬じゃないよね』
 生まれて九年。隠が知っているのは東京の冬だけだった。


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