扉にまつわるエトセトラ

「あの〜しょおこちゃん、ちょっときてくださいー」
「は? 何。ちょいまって!」
 タリウスの内装工事が一段落したある日のことである。
 タリウス会計役真棹秤子は真新しい厨房に使い馴れた調理器具を放り込むのを一時中断し、一応の雇用主にして共同生活者の姿を捜す。
(声の響き方からして店の外、か)
 厨房からカウンターを抜け、店内の床材を踏みしめて、大仰な一枚板のドアを体重をかけるように押し開けながら、肩を叩いて首を捻る。
「外で何やってんのかね、あのボケは」
 そんな呟きに頷くように、ドアにかけられたカウベルがかろんと鳴った。

 Barタリウスのマスター兼ネットワークの責任者である褐色肌の美人は、学校ならばまず間違いなく掃除用具がはいっているであろうスチールのロッカーの前に立っていた。
 そのロッカーの中に何が入っているのか秤子は知らないし、そもそもそれが『うちの』ものなのだと今更認識する。改装にあたってこのフロアはすべてタリウスの所有となっている、はず、で、ある。
(……いらんこと再確認しとるな、自分)
 世の中には自分の知らない事が多すぎる。
 ── 例えば、目の前のぼけぼけが何を考えているのかとか。
 こっちを呼びつけておきながら遠くに視線を向けて放心しているエリシュに、史上何度目かのやれやれを思いつつ、秤子は靴音を高くする。
 エリシュの服の白と黒、ロッカーの灰色と地味な色合いの中、足下に置かれたポリバケツの嘘のような水色が鮮やかだ。
 気がつかなかったら、蹴飛ばしてやろう。思った瞬間に黒い瞳がこちらを向いた。軽く手を挙げて、ほへっと笑う。
「あ〜。しょおこちゃんどおも」
 何がどうもやねんという思考が浮かんで消えた。
「早速ですけど、これ、どけたいんです。手伝ってもらえます? 中のもの出してるからそんな重くないと思うんですけど」
 微笑みながらロッカーを指差し、ね、というように首をかしげる。間延びした口調せいで気付き難いが、エリシュの言い回しは結構的確だ。
「別にいいけど、なんで? それ除けたって壁やろ」
 『運びたい』ではなく『どけたい』と言う以上、重要なのはロッカーではなくその位置だろう。けれどそこにはなにもないはず。壁の向こうはビルの外だし、非常口は別にある。
「まあまあ、はい、そっちをお願いします」
 ロッカーの片側にまわったエリシュの微笑みがにっこりに変わった。いつもなら、何人かでものを運ぶ時には進んで後ろ向きを選ぶくせに、今回は進行方向に正面 ── 空いてくる場所のほうだ。
(ああそーかい)
 要するに何を言っても無駄ということだ。
 そして、真棹秤子は無駄な労力を使う趣味を持たなかった。色々と思う所はとりあえず棚に上げておく。何が上がっているのかを秤子は常に意識しているし、要素は分類分別・整理整頓されている。棚の上のものを永遠に放っておく趣味もなかった。
「りょーかい。足、気ぃつけろよ。バケツあるんやからな」
「あ、そうですね」
 言っておくものだ。などと今更ながらに思う。水が入っているから躓くと面倒になことになりかねない。
 エリシュはバケツの存在を忘れていた訳ではない。彼女が忘れることはけしてない。それが良いことなのか悪いことなのか判定する気は秤子にはない。ただ、問題があるかと聞かれれば「Yes」と答えるだろう。
 検索に時間がかかるのだ。エリシュの中ではバケツの存在も、不確定な猫の存在もすべてが同一線上にある。今朝何を食べたかも、縄文人の食生活と等価値の羅列に組込まれる。そしてエリシュは何もかもを忘れない。
(……何でうちの周り、厄介な人材が多いんかね)
 超美人の癖にお気楽極楽ですっとこどっこいな悪友や、同じ『家』をルーツにするいわば兄弟のような連中の『我が道を行く』っぷりを思うと妙に自分だけが貧乏くじをひいてるような気がしてならない秤子である。「でも秤子ってば好きで苦労してるとこあるよね」と、お気楽桜は言うのだが。
 取り扱い注意の元締と二人で「よ」とロッカーを持ち上げ、動かす。「いいですよぉー」との間延びした声に応えて下し、ロッカーの向こうを覗き込む、と。
 ……そこにはやはり灰色があった。

「ドア?」
 壁の白を切り取るように存在する、ロッカーに隠されていた灰色は何処から見てもドアだった。ノブまでが、白みがかったのっぺりとした灰色をしている。金属の色感ではない。窓はなく、何かを嵌め込むような長方形のくぼみが目の高さにあった。にこにこしているエリシュを横目に見ながら、掌で触れる。感覚。
「……エリシュ、これ」
「ええ、これなんて言っちゃいけませんよー」
 そう言って横に並び、灰色のドアを軽くノックする。秤子の掌に伝わるものが強くなった、目覚めたように。
「封じてたんです。あぶない、ですから」
 いつもと変わらぬ口調で、すこし目を細めて。ドアをなでる指先はいたわるように何処か優しい。
 脈打つような感覚を発するドアに置いたままの、掌をエリシュに伸ばそうと誘惑を秤子はさらりとかわした。一般に『視覚』で捉えられる『オーラ』を秤子は触覚で掴み取る。感情まで読み取るこの力を相手の承諾なしにふるうのは『ルール違反』だ。
 疑問や不満は口に出すべし。何も言わずに自分を理解させるのも、相手を理解するのも虫のいい話。気の迷いから思考を切り替えて口にしたのは、事務的な反復。
「あぶない?」
「はい」
 エリシュが『ドア』に向って許可を求めるように微笑みかけ、灰色のノブに左手をかけて押し開く。
 ぐ。と、
 扉の動きにあわせ、取っ手を掴んだままの身体が前のめりになる。吹き上げ吹き込む風。秤子がとっさに肩を掴むまでに滑った黒いヒールがフロアの縁で止まっていた。
 つま先のはるか下にはほの暗い灰色のコンクリの路地。当然すぎるほど当然の光景。
「……おい」
 今まで少しも動かさなかった右手を壁の縁にかけて、ビルから『はみ出た』身体と扉板を引き戻し、ドアを閉めてほう、と溜息をつく。
「鍵がかからないんですよね」
「だから?」
「あぶないじゃないですか」
「いや……確かにそーなんやけどな」
 秤子が効果的な物言いを考えているうちに、エリシュはドアの前から身を翻し、何処からか取り出した小瓶の中身をバケツの水におとす。
 中の水がバケツの水色を軽く凌駕するまったりとした蛍光オレンジに染まった。不透明で底も見えない。
「……」
(どーしてそう次から次へとユカイなマネをするんじゃおのれはっ!)
 思わず言葉を失っている秤子に構わず、エリシュは蛍光オレンジの水にぞうきんをつけ、きちんとしぼったそれを秤子に手渡してドアを指差す。
「しょおこちゃんは上の方をおねがいします、きれいにしてあげてくださいねー」
 とりあえず胡散臭気に手の中のオレンジぞうきんを見つめ、もはやどうしようもない思いでドアを拭く。
 謎の蛍光オレンジの効果は一拭き目で分かった。
(……テレビショッピングも吃驚やな)
 のっぺりした灰色が跡形もなく拭き取られ、そのあとには、くっきりとした鮮やかな緑色がのぞいていた。

 『真緑』。何々のようななど言うまでもないほどそのドアは濁りのない緑色をしていた。不釣り合いにクラシカルな、曇りのある真鍮のノブも、全体としてみた時に不似合いな訳ではない。シンプルなのに妙な貫禄がある、場末の貸しビルの壁にはまっているのがおかしな程だ。
(ま、妖怪だっちゅーのがそもそも変なんやけど)
 その場末の貸しビルのBarで会計をしている自分を棚上げし、Barタリウスとその周辺に存在する半妖怪を思い浮かべる。
 『伯爵』ことヴァンパイアのフェルナンドが愛用するピストルは『自分』の扱いに習熟した相手にしか引き金をひかせないし、タリウスの店内に下げられたウインドチャイムは風がない時でも気紛れに音を響かせる。
 入り口のドアにかけられたカウベルはどれほど静かにドアを開け閉めしても鳴るし、ドアから出入りしないふとどきな客には、意地を張るように大きな音でがらごろ鳴り続ける。
 更にはこのビルの屋上に落下防止のネットが張られていないのは、基本的に落ちると危険な『人間』を屋上に続くドアが拒むからだ。都築が『落ちるようなマネしないのに通してくれない』と嘆いている。『彼女は心配症ですから』とはエリシュの弁だ。
 乾拭きを終えたエリシュが区切りをつけるようにぱむぱむと手を叩き、自然な仕種で指先を『緑の扉』に向ける。
「ええと、そんな訳でこちらウォーリスさんです」
「ああ、どうも真棹秤子です。これなんてゆうてすまんね」
 ぽてぽてと触れた指先から伝わる感触はとりあえず好意的だ。
「相性は悪くないみたいですね」
「悪いとなにかあるんか?」
「嫌われますねぇ、きっと」
「……嫌われると?」
「さあ、どうでしょお」
 困ったように呟いて何処か遠い所に視線を向け、『好き嫌いって人それぞれですからねぇ』と答えにならないことを言う。とりあえず、そのうちギセイシャでも出れば分かるだろうと、割り切る秤子もそれなりに良い性格をしていた。
「それで封じてたのって解けてるん? 今」
「あ、ええ。あの灰色ペンキが封印でしたから」
「……そーゆーもんなんか? 封印て」
「封じる時には一人でペンキ塗ったんですよね」
 エリシュのしみじみとした語りに、今更ながらに拭き取った灰色のペンキの正体が気にかかる。ただのペンキという落ちもそれはそれで嫌だが、その怪し気なペンキを拭き取ったのが蛍光オレンジなんだよなと、ぞうきんに触れていた掌を眺めてみる。
 エリシュといえば今しなければならないことを思い出してぽむと手を叩くと、さっくり話を本題に戻す。
「封じていたウォーリスさんの力ですが、『門』です。だいたい想像はついていたと思いますが」
「いや、なんかそんな想像する間もなかったんやけど」
「なにかと忙しかったですからね」
「そーゆーことにしとこか……」
 秤子は溜息をついて緑の扉の『ウォーリスさん』を見やる。
「じゃ、封印解いた今、ドア開けたらどっかに繋がるんやな」
「いつでも何処かに繋がってます」
 ふむ、と頷いてドアを開けてみる。
 吹き上げ吹き込む風。目の前にはとなりのビルの壁、下方にはほの暗い灰色のコンクリの路地。灰色の封印を落す前に開けたのと変わらぬ光景。
 そのままの体勢で首だけを動かしエリシュを見る。
「どーゆーことかなこれは」
 秤子の、淡々とした抑揚のない問いかけに動じることなく、エリシュはどこか納得したように腕を組み、うんうんと頷く。
「起こりうる最大確率の事象が起きてますねー」
「一人で納得しとらんで説明せい」
「『何処かに繋がっている』という事実に間違いはないでしょう?」
 ドアの外を覗き込み、秤子の顔を見て楽し気ににっこり笑う。
「物理的にドアの向こうにあるのはこの場所ですし、しょおこちゃんはその事実を知ってますからより『確定』されるんですよ」
 説明口調のエリシュの科白を秤子が豪快に要約する。
「要するに先入観を持たずに開けろっちゅーことかい」
「それもひとつですね」
 ひとまずドアを閉めた秤子に変わって、エリシュがノブを握り押し開ける。
 ふわりと。吹き上げ吹き込む風、は潮の香がしていた。

 ほんの少し前まで無機質な灰色が占めていた『地上』は、いまや蒼く波打つ海になっていた。エリシュはその光景を確認すると、あっさり扉を閉める。
「見ての通りです」
 廊下にかすかに留まっている潮の香と波の音を振り切って、秤子は疑問を口にする。
「それは分かったけど、『海』に行こうと思って開けたんか?」
「そうでもないですね、完全にランダムです」
 軽く首を傾けて言われたエリシュの言葉に、秤子は遺憾の表情を浮かべて『扉』を見やる。
「色気のない話やけど、そんな何処行くか分からんもん使えないんちゃうの?」
 『何処へ行くか分からない』それはある意味、魅力的であるのだが。
「このままでは実用性はないですよね」
「『このままでは』ね」
 反復にエリシュが小さく笑う。
「これは予想してましたか?」
「それなりに、な」
 黒いロングタイトのポケットから数枚のプレートを取り出し、その中から1枚を選ぶとドアにあいた長方形のくぼみに嵌め込む。何やら文字がかかれた乳白色のプレートは、合わさると緑に変ずる。
「これでほぼ確定です」
「それでもほぼがつくんやな」
「そこらへんは勘弁してもらうと言うことで」
 こんこんと軽くノックをして、ドアを押す。ドアの『向こう』にためらいなく足を踏み出して、ひょこりと奥を覗き込む。
「こんにちは〜」
 声をかけつつドアを大きく開き、奥の様子が秤子にも見えるようにする。
 不自然に薄明るい部屋、幾何学的に本やらパソコンのディスプレイやら何やらがつまったいくつものスチールのラックと、そこからこぼれたふうの本とプリントと多種多様なディスクとその他諸々に占拠された空間で、白衣がのそと動いた。
「やあやあ、久し振りだねえ。わざわざ来るなんてどうしたね」
 見えないだけであるのだろう椅子を、きゅこーと回転させてこちらに身体を向けるのは、妖し気、というには生気とうさんくささに満ち溢れた壮年の男だ。
 秤子としては軽い目眩を禁じ得ない。春の『勇者騒動』でタリウスの常連を、肉体的にも精神的にも叩き潰した張本人だ。
 常連連中は知らなかったようだが、彼がタリウスを訪れたことも、ある。
「わざわざ来た訳ではないんですけど、とりあえず報告をと思いましてー」
 エリシュの科白を吟味し、肩ごしに会釈をする秤子を見てふむ、とひとつ頷きながら背もたれに体重を預ける。
「つまり封印を解いたということか。封印除去剤は悪くなっていなかったかな」
「大丈夫です。『ウォーリスさん』も気になる所ないみたいですし」
「それはよかった、ところで新しい発想のもとに薬を……」
 封印除去剤こと蛍光オレンジ製作者が新作を求めて部屋を見渡した瞬間、エリシュがすかさず言葉を紡ぐ。
「それでは未だ改装工事が終わってなくてわたわたしてるのでこのへんで」
 『ああっ?』と言う声をドアの向こうに押し込んで、すちゃっと扉を閉める。はまっていたプレートに乳白色が戻り、自然に外れた。
「以上です」
 そのプレートでぺしぺしと頬を叩き、やや疲れたようにエリシュが言った。
「だいたいプレートに書かれた先に繋がるようになってます」
「ちなみに今のは?」
「北大の地環研です」
「今まで聞いてなかったけど、あの男とどーゆー関係なん?」
「学友です。……いつだったかは思い出すのに時間がかかりますけど」
「……常連連中には言わんでおこうな」
「……そうですね」
 『勇者騒動』はエリシュにとっても良い思い出ではない。溜息混じりの息を吐くと、何故か今や透明に戻った水入りのバケツを持ち上げる。
「封印も解きましたし、くみちゃんにも紹介しておかなくちゃいけませんねぇ」
 言って、久世水見が片付けをしている住居部分に向おうとするエリシュの背中に、秤子はささやかな疑問から声をかけた。
「扉にプレートはめたままにしとく訳にはいかんもんなの?」
 そうすれば少なくとも『ウォーリスさん』から転落するようなことにはならない。
「そうするのが正しいんでしょうけど」
 バケツを置き、かつかつと扉の前に戻るとノブに手をかけ、しばし瞑目して勢い良く開く。
「……っ」
 ── 息を飲んだ。
 扉の向こうに広がったのは何処までも続く広い道。両側に広がる色とりどりの花の絨毯。思うがままに咲き誇る花の中で毬と戯れていた豹が、ひどく賢そうな瞳をこちらに向けた。あたたかく、澄んだ、清らかな光が世界一杯にあふれる……。
「正しいと分かっていても、こんな可能性を一つに固定しちゃうのはなんだかせつなくないですか」
 ぱたりと後ろ手にドアを閉めて、エリシュはいつもの、『ただ笑う』のではないそんな微笑み方をした。

 改めて住居部分に向うエリシュをなんとはなしに見送り、秤子はタリウスの店内に向う。真新しい厨房では使い馴れた調理器具が片付けられるのを待っている。
 大仰な一枚板のドアを足に力を込めて引き開け店内に入ると、天井を仰いで溜息をつく。
「可能性の、固定ね」
 先ほどの、エリシュの言葉を繰り返し、そのままの姿勢で掌を額にあてる。
(そーゆーことをそーゆー顔で言いおるから、おのれはなによりやっかいやねん)
 タリウスが開店してそろそろ四半世紀。秤子の棚の上に上がったままなのは、誰よりこのBarのマスターのことだ。
 年を経るごとに分かることも分からないことも増えてゆく。
 はっ、と溜息にならないように鋭く息を吐いて、カウンターに入る。指先で触れた、使い込まれたカウンターテーブルには25年の想いが詰る。
 『これからの25年もよろしくな』そんな気持ちを込めてととんと叩き、秤子はひとつ大きく伸びをすると厨房へ消える。
 誰もいなくなった店内、そんな気持ちに答えるようにドアにかけられたカウベルがかろん、と鳴った。


......Fade out.



*あとがきのようなもの*