夜明け前

* 『そして天秤はゆれる』を先に読むことをお勧めします。


 おおむね良い日だったと思う。
 hatoの彼女(もったいないことだ)であるところの黒羽瞳嬢がここタリウスに来て、『彩音』の話をして、まあ、泣かせた。
 涙にくれる少女を見て、はじめて彼女が『少女』であることに気づいたり、── 結局、エリシュを頼ってみたりして。
 とりあえず反省は、いい。
 瞳さんはエリシュとすっかり仲良くなったみたいだし、問答無用でいい子だと思う。しみじみもったいないことだ。
 それでも、hatoの奴と話している時の瞳さんの顔を見ると、何か言う気も失せる。なにより好きなんだなぁと微笑ましく感じる。
 そのうえどうやって瞳さんを泣き止ませたのか謎なあのボケが、いつもにもましてにこにこしていやがるから。
 すべて、この良い気分のまま、流し去ってしまいたいけれど。
 それでもゆずれないものがある。


 そうして真棹秤子は顔をあげる。ささやかな幸せの名残りを留めたグラスから、穏やかな目をした、このBarのマスターへ。


「何、言う気やったんや」
 唐突に投げ掛けられた詰問口調の言葉に、エリシュはグラスを片手に黙る。手の中のグラスからウチの顔を経由して結局俯くその様子は、教師に叱られることを覚悟していた子どものように見えた。
「悪いて分かっとんならしようとするな。ガキか、アンタは」
 カウンターテーブルに両肘をつき、背中をあずけ、天井に向ってそんな科白を吐く。
 気持ちのいいものでは、ない。軽く息を吐いてエリシュを見据えた。
「言っても瞳さんの救いにはならへんやろ。もちろんhatoの救いにもな。『タリウスの動きが遅れたのはネットワークの責任者である自分のせいだ』とか、
  ──『人払いを、彩音に破られた。自分の責任だ』とかは………」


 確かにそれは一つの事実。
 覆すことの出来ない真実。


 あのとき聴こえてきた、あがるはずのない悲鳴と叫び。伝わってきた戦いの気配に、反対側の入り口で人払いをかけているはずのエリシュの元に走った。
「エリシュ!」
 そこにいた褐色の肌の人影は、呼び声に答えることなく、崩れたように膝をついて壁にもたれ掛かったまま動かない。
 左手は額、右手は心臓の位置。
「エリシュっ!!」
 走り寄って、怒鳴りつけて、強引に右腕を掴んで体を引き上げて。そこでようやく、焦点を結んだ目が顔を見上げてくる。
「なにがあったんや?」
「……わたし、」
 微かに震える左手を強く握り締め。
「行かないと」
 普段見せることのない強い眼差しは、最早気配のおさまった戦いの場所へ。
 歩みを進めるその足取りがひどく迷いないものだったから、その背中に、声をかけることの出来ないまま。ずっと。
 ── 何があったのか。その答えを得ることもなく。

 現在(いま)も。


 あの事件からいくつかの約束を重ねて、あの事件までのいくつかの約束をこころの中に刻んで。ここにいる以上やるべきことがある。
「わたしは……」
「考えてることはわかっとる。でもそれは思い上がりや。アンタは彩音に負けたんや。彩音が、hatoとサディケルの戦いの『部外者』になることを拒んだんや」
 この言葉だって誰の救いにもなりはしない。ひとつの提示でしかありえない。
 あの結末を生んだのは、彩音自身だという解答は。
 エリシュは理解しているだろう。この自分の言葉の真意が『すべてを彩音の所為にする』ものであることを。そして納得することは無いだろう。それでも、ひとつの考え方であることを認めるだろう。
 ── それが『真棹秤子』の価値であり、意義だ。
 エリシュが『負けないように』するための。
「全てを憶えてゆくことを、ウチは否定する気はない。それがアンタの生き方や。ただ」
 カウンターテーブルから背中を起し、立ち尽くしているエリシュの、あの時右手の置かれていた位置を、拳の裏で軽く叩く。半ば脅すように至近距離から強く見据えて。それで、想いの量全てを叩き付けられればいい。
「これ以上、ここに『墓穴』を掘るな」
 心なし呼吸を止めて、瞳を閉じて息を吐き出して。顔をあげて、エリシュは静かに微笑む。
「わかってます。わたしは、そんなに広い胸の持ち主じゃありませんから」
「……だったら、ええよ」
 答えが出てしまえば、もう何もいうことは無い。長い一日が、これで終わる。
 終わらせられる。
「ウチは寝るわ。まとめといて片付けるの明日にしようか」
「そうですね。じゃあ、まとめておくのでしょおこちゃんは寝て下さい。終わったらわたしも、少し休みますから」
 いつも通りの『マスター』の口調でエリシュが返す。
 だから。
「一人で片付けたって何もでんからな」
「わかりました、すぐ休みますよー」
 軽く言葉を交わして、ウチは店内を後にする。
 店と生活空間とを区切るドアを閉めたとたんに、全身から力が抜けた。顔が歪んでいるのが自分でもわかる。いらだたしい気持ちのまま前髪をかきあげて、店内に音が響かないようにドアに背中をあずけた。
 いっときは、こんなふうにエリシュを一人にするのが嫌でならなかった。
「違うな」
 エリシュを一人にするのではなく、エリシュが自分の目の届かない所にいるのが嫌だったのだ。今だって、気になる。自分が眠っている間、何を思い、誰と居て、何を話しているのか……。
「駄目やなあ」
 溜息をつく、どうして、と思う。思ってしまえばきりがない。
 どうして、エリシュは眠らずにいられて、自分はそうすることが出来ないのか。
「……どうして、他人の人生に執着するような奴に、神さんは『忘れられない』力なんてあたえたんや」


 ── どうして。


 ネオンに染まった街の空が、ひととき本来の色を取り戻す。初夏、早い朝がその指先を伸ばすまでの短い時間。
「墓穴、ね」
 一人残った店内に思いのほか声は響いた。叩かれた場所を押えていた掌をおろして静かに目を閉じる。
 左手の薬指に伸びた指先をとどめるように握りしめて。
「ウォーグレイヴ、か……」
 ── 留められた想いは何処へたどりつくのだろう。

 いま、わたしは、しあわせです。
 確かめるように、こころのうちでつぶやいて。
 そして窓を開けて風に吹かれよう。

目覚めていない街の風が吹き込んでくる。
呟かれた言葉を静かに、拡散させるように。




......Fade out.



*あとがきのようなもの*