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              黄斑つれづれ


          ああ、南イタリアの旅

目の調子がおかしいのに気がついた頃、私は南イタリア旅行の準備の真っ最中であった。昨年、ミラノからローマまでのツアーですっかり仲良くなった旅仲間と今度はナポリ、シシリーなど南イタリアの旅をすることになり、計画を一任されていたのだ。

 1ヶ月前から何度も電話やメールで連絡し合い、旅行会社と交渉を重ね、やっと買取のプランが成立、申込金を払う段階まで来ていた。そしてツアー名を添乗員のニックネームから「オダッチクラブ南イタリアの旅」と付け、旅行会社に連絡したのは初診の前日であった。

労災病院で初診の検査が終わり、先生から3週間の入院を告げられた。

 (えっ、どうしよう)私はすっかり狼狽してしまった。(ツアーは? それに今、手抜きの出来ない受験生も抱えているし・・・・) 私は先生には何の関係もないこんな事情をくどくどと述べ立てた。

 それでも先生はじっと聞いてくださった。「そういう事情があるのなら旭川医大でよく話したらいいですよ」

4日後、旭川に向かう時にはもう「旅行に参加しないなんて絶対出来ない、手術は旅行の前か後にするようお願いしよう」と決めていた。
 
 旭川医大の診察が始まるや私は又同じことを藁にでもすがるように必死の思いで言いつのった。しかし4時間にわたる検査の結果、担当のM先生は断固たる調子で言った。「はっきり言って旅行は諦めなさい」

 私は呆然となり、「でもー・・・、そんなー・・・」自分でも訳のわからない言葉を繰り返した。しかしキッと見据えた先生の目の前では何を言っても無駄であった。結局、ではお願いしますとしおしおと頭を垂れるより仕方がなかった。

 帰途ずっと「ああ、どうしよう、私のせいで旅行がダメになったらどうしよう」とそればかり思い続けていた。
 
 夕方帰宅するや電話に飛びつき、岩手、千葉、横浜と次々にかけた。事情を話し「何とかいい方法を考えるから申込金はちょっと待って」と。仲間達は旅行のことより私の病状を案じてくれた。
 
 私達夫婦はもちろん、今度が初めてのヨーロッパ旅行で私を頼りにしている友人と他2人、計5人がキャンセルしたので買取の旅はやはりダメになってしまった。

 しかし旅行会社で色々手を尽くしてくれることになった。幸い同じプランの一般のツアーにまだ空席があるとのことでみんなはそこに組み入れてもらい、添乗員も希望通りになりそうであった。

5日後、旅行会社に一切をバトンタッチしてやっと手続きは終わった。

 ほっとしたその時、初めてあっと気が付いた。私は病院で自分の病気のことを殆ど聞いてこなかったのだ。病名さえも聞いていなかった。もしかして聞いたのかもしれないが頭には入っていなかった。夫に付き添ってもらわなかったことを大いに後悔した。

入院の数日前、成田空港から仲間達の出発間際の電話がきた。

 旅は私の入院中に無事終わり、お手紙やお土産が次々に届いた。いい旅だったとのこと。本当によかった。お土産のイタリアワインで乾杯!




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        小人閑居して
  長い待機時間  

検査を受けて入院の手続きをしたとき、私は1週間ほど待てばいいと思っていた。実は不覚にも今後のことをなにも聞いて来なかったのだ。

 翌日から入院の支度を始め、レッスンは期末テストのあと当分休業にした。といっても受験生だけはぎりぎりまでみなくてはならない。ボランティアでやっている編集の仕事もしばらく休ませてもらうことにした。

 入院の準備は万端整った。もう明日にでも入院できる。

ところが2週間たっても3週間たっても病院から何の連絡も来ない。1つだけ良かったのは高校入試まで生徒達の面倒を見、全員合格も見届けることが出来たことだ。

やがて私はもとより親しい友人達まで焦りはじめた。「忘れられているのではないの?」 病院に時々電話してみたが担当の先生がつかまらない。

 1ヶ月も経つと街で「退院おめでとう」と声をかけられるようになった。

 いつも待ち時間は本さえあれば一向に苦にならないのだが、目の調子が悪くてはそうはいかない。

 眼の孔はだんだん大きくなるのではないか。これからの仕事の予定はどうしたらいいのか。不安と焦りは日増しに大きくなった。このままではおかしくなりそうだ。なんとかしなくては。

 私は雑念を忘れて集中できることを探した。

 まず商売道具の図形の問題集を取り出した。これは私の苦手の分野だ。それを電話のそばで解き始めた。これなら数式より見やすいし集中できる。来年度のレッスンはバッチリだ。

 しかし朝から晩まで暇とあっては10日もしたら手持ちの問題集は全部終わってしまった。

 本屋で数独というクイズの本を見つけた。1から9までの数字を縦横のマスにダブらずに入れていく朝日新聞でおなじみのあのクイズだ。あまり面白くないと思っていたが、新聞のは初歩中の初歩で本当は難度10まである。私はたちまち夢中になった。

 朝の片付けが終わると電話機を前にとりかかる。お昼になるとイヤイヤ昼食を作る。頭の中は数字でいっぱいで食事も上の空である。食後また始める。夕食もイヤイヤ作る。そして夜更けまでやる。

 いつもならこんなことを2日も続けると夫がゴチャゴチャ文句を言い始めるが、何日たっても何も言わない。私のイライラのサンドバッグになるよりはマシと思っているのかもしれない。

 しかしある晩、彼が娘に電話をしているのが聞こえた。「朝から夜中まで狂ったようにクイズに夢中でもうあきれ返ってものも言えん。」 そうか、ものが言えなかったのだ。

 2ヶ月経った頃、病院に電話をしてみた。M先生が出られて来週の月曜頃までに予定がわかるとのこと。

 「じゃあ、来週の月曜日まで電話にしっかり張り付いて待っています」
 「そんなに張り付かなくてもいいですよ。だいたい連絡は月曜ですから月曜だけ張り付いてください」
 「えっ、これまで2ヶ月、毎日張り付いていたんですけど」

 私達はそのあとすぐ登別温泉に予約を入れた。ウィークデーの遠出は久しぶりだった。

旭川医大の待ち時間は2ヶ月以上との情報が入ったのは、そのまさに2ヶ月以上経った時だった。あーあ、そうだったのか。

 やっと待望の連絡がきた。私はまるで海外旅行に出かけるようにいそいそと準備した。2ヶ月前に準備した包みは埃を被っていたし、冬物ばかりでもう役に立たなくなっていた。 

 1週間後、私ははれて入院となった。発病から退院までで、この2ヶ月の待ち時間がもっとも辛い期間だった。そのおかげで手術もうつぶせも難なくクリアできたのだ。




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            知りたがりや

私が目の手術のことを話した時、中学生達は目をキラキラさせて訊いた。「どうやって手術するのですか?」 それは私にも分からない。

 中2の4人クラスはレッスンそっちのけで手術方法を議論し始めた。後頭部説はたちどころに却下され、最後にこめかみ説とまぶた説が残った。

 「ちょっとお、これ私の手術よ。この顔、もうほとんど凍りついているのわかる?」「あ、すいません」
 しかし、本当は私も知りたくてたまらなかったのだ。

 次のレッスンの日、建二郎君が意気揚揚とやってきた。「あれからボクずっと考えていたんだけど、絶対この方法に間違いないと思うんだ」それは目玉の裏側に気体を入れ、眼球をなかば浮き上がらせて横から手術するというのだ。

 彼はていねいに絵まで描いて説明したが、あんまり熱心なので、私までそうかもしれないと思い始めた。そういえば労災病院の先生が目からガスが抜けるまで2、3週間かかると言っていたっけ。

その夜、私ははたと気がつき愕然とした。(すると私の顔はお岩さんだ!) 病院の薄暗い廊下を目玉の飛び出た妖怪のような形相でよろよろ歩いている自分の姿が目に浮かんだ。

 私は慌てて電話にとびついた。友人達が私の入院という珍事にはしゃいで物見遊山気分で旭川に繰り出そうともくろんでいるのだ。「見舞いになんか絶対来ないでねッ、来たらもう絶交だから!」

しかし、建ちゃんの「浮上説」は数日にしてあえなくボツになった。インターネットで「ガスは手術した痕をしっかりと押さえる役目をする」ということが分かったのだ。しかし、肝心の謎はまだ解けなかった。

私は分からないことがあると落ち着かず、手当たり次第調べる癖がある。しかし分かったからといってどうかなるものではない。納得したあとは次の疑問が湧きあがるまでただ心安らかに暮せればいいのだ。

 このはしたない性癖は年をとるにつけてしっとりと矯正されると期待していたが、そうはいかなかった。この歳になると、わかって納得したとたんきれいさっぱり忘れ去り、頭の中はいつもからっぽ、知りたい知りたいの飢餓状態なのである。

 手術の前日、主治医の先生が私と夫を前にしてゆっくりと分かりやすく手術の説明をされた。しかし、私の知りたい具体的なことはなにも話されなかった。私が人並みのデリカシーを持っていると思われたのかもしれない。

 いま訊ねなくては。それに建ちゃん達からの宿題も果さなくては示しがつかない。似たもの夫婦の夫も後で耳をすまして待っている。(彼は自分が知りたいことをみんな私に質問させる悪い癖がある)

 私は思いきって訊ねた。「あのーどこからメスを入れるのですか?」 先生はちょっと困ったような顔をされたが、ゆっくり言葉を選ぶように「ここからです」と教えてくださった。でもそれからどうするのか訊ける雰囲気ではなかった。

手術の間中、私は不埒にも私もモニターを見てみたいと思っていた。

 病室のルームメイトと雑談している時、この知りたがりの話が出た。先輩のTさんがあきれたように「普通は先生にそんな事訊かないわ」と言った。隣室のS夫人は手術前の説明のとき気分が悪くなり、先生がいち早く察知してお話を中止したそうだ。


 要するに私にはデリカシーというものが欠けているのだと恥じ入った。隣のベッドのNさんが私も知りたいわとフォローしてくれたが。


 退院も間近に迫った頃、視力検査のために一番若い先生が呼びに来られた。エレベーターを待っている間に私は訊ねた。「あのー、手術にはどんなメスを使うのですか。電気メスですか、それとも・・・」私はどうしても知りたかったので二者択一で迫った。


 先生は口ごもりながらも教えてくださった。「細いのをちょっと入れるのです」すかさず「それからどうするのですか?」このときの先生のお顔を見て私はとてもひどいことをしてしまったような気がした。


 ちょっと間をおいて先生はゆっくりと答えた。「ボクは新米の医者ですから上手に説明できません。主治医の先生に訊いて下さい」


 うーん、いくら若いといってもお医者様はお医者様だ。私などとは格が違う。この真摯な応答に私はすっかり感動してしまい、またもや自分のはしたなさを恥じた。


 こうなったら生まれ変わって来世で眼科医になるよりほかはない。


 しかし、ああ、「それは無理無理、絶対無理!」の大合唱が聞こえてくる。私のレベルではせいぜい、おさるのジョージかプレーリードッグ、いや現世で重ねてきたよからぬ行状を考えると、出目金になったとしても感謝しなければなるまい。





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黄色ゴブリン
 Yellow Goblin  おうしょくごぶりん

中心の字が見えなくなって間もなく、その目に奇妙なものが見え始めた。

 ポカッと何も見えない視点を中心に直径1.5cmほどのごく淡いベージュ色の円があり、その左上の片隅に2、3ミリの逆三角形の黄色いものが見えるのだ。いびつな黒線で囲まれた毒々しいほど黄色いもの、その中に2つ3つ、小さな黒い斑点がある。

 この不気味なものは何日たっても消えなかった。仕方がないので私はそのものに「黄色ゴブリン」と命名した。なりの割には少しご大層な名前だが、いたずら封じにこれくらいはしておかなくては。

 通称ゴブこと黄色ゴブリンはとうとう私の目に居ずわり、私の目の行くところどこにでもついて来た。特に本を読んでいるときは邪魔をするようにページの上を視線とともに動くのだ。


 雪道では雪の上にくっきりと現れ、私はいやでも彼の後を追って歩かなければならない。目をつぶっても瞼にしっかりと張り付いて離れようとしない。


 1月たっても2月たっても私は彼を好きになれなかった。こんな代物と余生を共にしなければならないと思うとまったく情けなかった。 


 入院の日もゴブは旭川まで私にしっかりとくっ付いてきた。

 手術が終わり、目の中のガスも少なくなり視界が開けたとき、まず中心の字が読めるか見てみた。読める!

 次に恐る恐るあのゴブリンを探した。いない! でもガスの陰に隠れているかもしれない。隅で小さく縮んでんいるかもしれない。私は注意深く探したがどこにもいなかった。

 バンザーイ! 先生が手術で追い払ってくださったのだ。私は晴れ晴れとした気分になった。

 かくして私とゴブの同居生活は2ヵ月あまり、正確に言うと69日間で終わった。



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うつぶせミュージック

 目の手術なら当分、目は使えない。困ったことになった。私の趣味といえば読書、編物、映画、パソコン等々、目を使うものばかりである。音楽は嫌いではないが主として仕事や日常生活のBGMなのだ。


 考えてみると人の忠告にもあまり耳を貸さないほうだから、耳のほうは使いこなしていないような気がする。これを機会に耳も少し慣らさなくては。


 私は早速小さなCDプレイヤーと更に小さなラジオを買った。CDは手持ちのクラシックに夫の友人から届けられたさまざまなジャンルのもの。娘達からはクラシック、ジャズ、ハワイアン等のテープが届き、ウオークマンの英会話と入れ替えた。(入院してまで勉強したくなーい)


 プレイヤーの扱い方もしっかりマスターした。そして紙袋いっぱいになったこれらの聞き耳グッズを抱えての入院となった。

 うつぶせのことは少しばかり知っていたが、まさか1日24時間、1週間以上とは思ってもいなかった。説明のプリントを読んで夫はロッカーのものを最下段に移し、飲み物用にストローを持ってきた。ほんとうに24時間、顔を伏せて過ごさなければならないのだ。


 私は自分にちょっとした強迫観念を植え付けてみた。「顔をあげたとたんガスは上昇し、折角の手術は台無しになるゾ!」その様子を何度も頭に描いた。

手術後1日目、慣れないので、体をもぞもぞ動かし、あちこちにタオルを当ててみたりした。しかし2日目から様子は一転した。音楽にのめり込んでしまったのだ。


 こんなふうに外界を一切無視し、誰にも遠慮しないで自分だけの世界に浸れたことはこれまで記憶にない。もしかして胎児時代から67年ぶりではないだろうか。あの時はどんな音を聞いていたのだろう。今、私は同じようにうつむいてひたすら美しい音に耳を傾けている。


 音楽がこんなに魂をゆるがせるものとは‥。私は音楽というものが本当に分かっていなかったのだ。私にとって音楽はいわば美しいティーカップであり、中身のティーではなかった。しかし今、音楽は芳醇な味わいのティーそのものになった。


 私は深い音色に息を潜め、ソプラノの絶唱に思わず喉を引きつらせ、玉を転がすような響きに指を動かした。軽快なリズムに調子をとっているのをさとられないように足はバスタオルで隠した。

 夫がいつになくやさしくなったところをみると、うつぶせ寝はよほど哀れな姿に見えるらしい。先生や看護師さんが次々とやってきては慰めや励ましの声をかけてくれる。こちらは顔もあげずに悦楽の境地をさまよっているというのに・・・。

 なんだか昆虫の擬態みたいで気がとがめた。しかし折角の同情にたてつくわけにはいかない。それにここで打ち明けても、年寄りの意地っ張りとかやせ我慢とか、あるいはエエカッコシイ(北海道ではイイフリコキという)とか思われ信じてもらえないだろう。
 
 一度だけ顔を覗き込んでやさしい声をかけてくれた若い看護婦さんに思わず言ってしまった。「ほんとはねえ、音楽を楽しんでいるのよ」

 彼女はあきれたような声で「まあ、プラス思考の方ですねえ」。


 ちょっと違うんだけど・・・。私にとってこの事態はとんでもない僥倖、言い換えれば「石ころが落ちてくると思っていた棚からおいしいボタモチがボタボタ落ちてきて、その上、真珠までがパラパラ降ってきた」こんな感じなのである。

 私はうたた寝入れるとと1日15時間は音楽に浸っていただろう。素晴らしい時間であった。
強迫観念ももう必要なかった。

 不思議なことに体もそう痛くならず、看護婦さんが時々してくれるマッサージですぐ楽になった。知らないうちにリズムに合わせて体を動かしていたからかもしれない。


 うつぶせは意外に早く終わった。5日たって先生がもうよろしいと言われた時、もちろん嬉
しかったが、チラッと思った。(まだ聴いていないCDがあるのに・・・)

 うつぶせが終わってからも何度も同じ曲を聴いてみるが、残念ながらあの感動は得ることが
出来ない。

   うつぶせミュージック 私の BEST5

       *キリ・テ・カナワのオペラアリア
 
     
*バッハの無伴奏チェロ組曲

     *ハワイアンアーティストによるフラソング

     *ピアソラのタンゴ


     
*クラシック名曲集
(これは長女がCDからテープに編集したもので、中でも
                  リストの「・・・噴水」は私を何回もアルハンブラの庭園に立たせてくれた)


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    目の中の小宇宙

 
目を覆っていた角綿がとれると、視界いっぱいに黒いまん丸いものが見えた。注入したガスである。鮮やかな円弧は、磨き上げた精緻なレンズを思わせる。

 目を閉じると茜色の空にくっきりと浮かび上がった黒い天体のように見える。中心はすりガラスのように半透明でほのかな黄色が透けて見える。頭を動かすとゆらりと揺れるがその端正な形は決して崩れることはない。

 頭を上げると半分は下瞼に隠れる。私は時々うつむいてはその異様に美しい形に見入った。
 
 お向かいのベッドのTさんのは違うように見えるらしい。網膜はく離の手術の後、経過がはかばかしくないそうだが、彼女の目の中はオーロラや虹のようにカラフルだそうだ。

 私たちは毎日、日課のように彼女に本日のおメメのご様子を伺う。「今日はねえ、淡いブルーとピンクの波が見えるわ」「今日は黄色の帯が見えるの」色鉛筆があったらスケッチしたいほどである。

 しかし、これはもしかしてうっとりしている場合ではないのかもしれない。2度目のガスを注入した後、体調がすぐれないのか、カラフルな話は途絶えた。

さて私の天体は日増しに小さくなっていく。ある朝、顔をあげると半円のてっぺんが視線より下がっていた。私は急いで手元のプリントを片目で見てみた。

 あっ、見えなかった字が見えた! 少しぼやけているが確かに見える。


 その日は1日中、先生から看護婦さん、お掃除のスタッフにまで「見える、見える」と騒ぎ立てた。Tさんやこれから手術をするというルームメート達にとってかなりの顰蹙ものであったに違いない。


 天体はなおも縮み続け、直径5センチほどになった。朝目覚めると脇にビー玉ほどのがくっ付いていた。分裂したのだろうか。2つもあってはものを見るにもうっとうしい。しかし、お昼寝の後はまた1つになっていた。
 
 ところが翌日はなんと3つになっていた。ビー玉の横にえんどう豆ほどのがくっ付いているのだ。太陽と地球と月のようだ。そしてその次の日はまた1つになった。それも退院の直前にはもう真っ黒いビー玉のように小さくなっていた。

 退院したあと、まったく見えなくなった。ついにご昇天かと思っていると翌日ふいにひょっこり現れ、「おやまあ、まだご健在で!」とびっくりさせる。やがてそれも消えた後、瞼をすいと横切る影が見えたが、お目にかかれるようなものではござんせんとばかり隠れたままであった。

 そしてそれっきり何も現れない。あとは黒い微小なものがいっぱい浮遊しているだけである。もしこれがネガだとしたら、ポジにしたらきっと満天の星空に見えるだろう。




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          ブラインドを上げると

 手術のあと部屋が変わったのでうつぶせが終わるまでこの部屋の窓の外は知らなかった。顔を上げて初めて外を見た時、思わず息を呑んだ。目の前に残雪を載せた十勝連峰が広がっていた。

 朝から夕方まで私はその山なみを飽きることなく眺めた。

 朝、6時を告げる放送と共にブラインドを上げる。晴れているときは見事な稜線だ。曇っているときでもたいていその姿の一部は見せてくれる。
 

折りしもFMの「あさのバロック」が始まる。私は窓辺に椅子を引き寄せ、イヤホーンから流れてくる典雅な旋律に耳を傾けながら山々を眺める。こうして小1時間、まことに贅沢な時間が流れる。すべてに感謝したいような贅沢な時間である。
 

夕焼けの十勝連峰は更に見事だ。落日は山腹から残雪の頂へ、そして空一帯を濃淡のバラ色に染めあげていく。実に華麗な1日のフィナーレ。この病院、この病室に入院していなかったらこんな豪華な光景を目にすることはなかったであろう。
 

日が暮れると街の灯りが美しい。ガスがまだ残っている目には灯りはにじんで線香花火のように見える。小さい時、角膜炎を患ったNさんは今でも街の灯りは線香花火の連なりに見えるそうだ。Nさんと並んで眼下一面に広がった線香花火の夜景を眺めた。




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          こぶしの花のお出迎え


 思いがけなく退院の日は早くやってきた。予定表には3週間から4週間と書かれてあったのに13日間で済んだ。友人達に電話すると誰もが「ええーっ、なんで?」と言い、そのあと慌てて「おめでとう」と付け足した。
 

見舞いに行きそびれてがっかりしている様子である。旭川でおいしいものを食べて、ついでに温泉に行って・・・という彼女達の計画はオジャンになってしまった。私のしおらしい病衣姿も話の種にしたかったのに違いない。

彼女達ほどではないが、私の方もちょっぴり名残惜しい。毎日、あくせく働いている主婦にとってここはきわめて居心地がいいのである。

家事は一切しなくてもいい。じっとしていても三度の食事は運ばれてくる。やさしくて親切な先生方が最高の治療をしてくれる。容姿も心も美人の看護婦さん達が入れ替わり立ち替わりやってきては面倒をみてくれる。

こんなに大勢の人に一度に親切にされたのは初めてのような気がする。思わず「あーあ、幸せな2週間だったわ」と言ってしまってルームメート達の失笑を買った。

 私は乳児の時に重い肺炎にかかったのをきっかけに子ども時代は病院と縁が切れなかった。そのせいか病院が大嫌いになり、大人になってからは病院に行かなくてすむことばかり考えて暮してきた。健康にいいといわれることを全部やるほどの気力はないが、よくないといわれることは極力やらないようにしていた。

 したがって健康保険も医療保険も長年ほとんど掛け捨てである。納入日が近づく度に私がぶつぶつ言うのを高額医療の家族をもつ友人達はイヤな気持ちで聞いていたのだろう。入院することになった時、みんな口を揃えたように「保険、やっと元が取れるわね」と言ってニヤリとしたのだ。

 この病院に入院してみて私の病院のイメージは逆転した。たまに病気になるのもいいかななんて不遜なことをちらっと思ったりする。さて私の健康管理の努力はこれからどうなることだろうか。

 退院の日は連休中とあって先生方や看護婦さんたちは見えず、病棟はひっそりしていた。
 

外は珍しく小雨、山あいでは芽生えの新緑が鮮やかだ。こぶしの花が満開、もはや散ったと聞いていた山桜もまだ咲いていた。早春の花々は足踏みをしながら待っていてくれたのだ。




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            扉を閉じて          

ある日ある時、私の黄斑にポツリと小さな孔があいた。それは誰も知らない瞳の奥底に起こったひそやかな出来事だったのに・・・。

数百ミクロンというその小さな孔は突然、私の視界を狂わせ、私を不安に陥れた。私の平穏な日常生活を掻きまわし、目下のスケジュールを台無しにしてしまった。

そしてそこから私の稀有な体験が始まった。私は不思議な世界をさまよい、美しい光景を覗き、たくさんの素晴らしい人達に出会った。それはまさしく旅そのものであった。

あの小さな孔はこの異次元の旅への入り口だったのかもしれない。その穴はもうしっかりと閉ざされた。
 

今、私の視界には北国の百花繚乱の春景色が満ちあふれている。 (2002年5月)



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     のちのつれづれ


                  あれから1年 

 手術をしてから1年3ヶ月、そしてホームページを公開して10ヶ月。私はとても元気。冬にはオーストラリア、この春には前年行きそびれたイタリアにも出かけることができた。

 その間、体験記を見て下さった方たちからご質問、ご感想、ご意見を色々いただいた。病気のことについては、術後の回復の不安を訴える方もいて、そのお気持ちに少しでも寄り添えないかとあれこれ思案をめぐらした。1体験者に過ぎないこちらの非力がもどかしい。
 また、手術前に読んで参考になったと感謝していただいた時はとても嬉しかった。

 エッセイの内容に関わるものも多かった。音楽や北海道の山々のこと、中には私の人生観にまで深読みしてくださった方もいて、まったく恐れ入ってしまった。とにかくこちらのほうは楽しく読んで下さったようで、とても嬉しい。

 私の日常生活にも変化があった。仕事を減らし、40年続いた慌しさから少し解放され、少数になった生徒達とのんびり教えたり教えられたりできるようになった。

 私の病気を心配してくれた中2の4人組はこの春、それぞれ希望の高校に進学した。あの建二郎君は私の退院後、手術の詳細を聞いて医学の進歩に感動していたが、彼も進学校に入学した。もしかして眼科医になるかもしれないとひそかに期待している。

 この1年、珍しく一度も風邪を引かなかった。病院で先生が猛烈に手を洗っているのを見て、私も少しだけマネをすることにした。看護系の高校生の晴美ちゃんも手の洗い方を教えてくれた。それにウガイと換気も心掛けたので、この冬には教室に風邪の生徒がよく出入りしたが全然うつらなかった。

 たくさんのことを体験した一年であった。おかげで残りの人生をより豊かに過ごせるような気がしている。




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          明るいんですって?

 一番多かった質問は「どうしてそんなに明るく書けるのですか?」

 これは思いがけない質問であった。こちらは思った事をそのまま書いたつもりだが・・・・。
若い友人も言った。「またまた、いつものノリですね」
彼女はこれまでも私が時々お土産代わりに配る旅行記を読んでいたのだ。

 大方の意見によると、闘病記というものは旅行記と違って真面目に深刻に、時には悲壮感を漂わせて書くものとなっているらしい。私のように命に別状のない場合でも同様というのだ。

 困ってしまった。申し訳ないがそんな事はとてもできない。私はそんなふうに書いていたら、なぜかジンマシンが出そうになるのだ。どうも生来、軽佻浮薄な体質らしい。

 それに悪い事に、実はこれはいつもよりずっとハイな気分で書いたのだ。
目の異常に気がついてから3ヶ月間、私はほとんどパソコンに向かわなかった。目の孔が大きくなりそうで怖かったのだ。

 退院の時、先生からパソコン、読書はいくらやってもOKのお墨付きをいただき、大喜びで帰宅。その夜からニコニコニヤニヤとパソコンの前に。「黄斑つれづれ」は一週間で一気に書いてしまった。行間にその嬉しさがにじみ出てしまったのかもしれない。

 いずれにしても「トンマな人間が自分のことを書くと、こんなふうになってしまう」のだ。口惜しいけれどこれがファイナルアンサーかな。

 不謹慎な所があったらどうかお許しを。

 その他諸々のご質問、ご意見についてはどうぞ以下の文をご参考に。



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               大変な目

 退院後しばらくたったある日のことである。私は車の助手席で居眠りをしていた。朦朧とした目でふと外を見てギョッとした。ずらりと続く街灯のポールがことごとくぐにゃりとゆがんでいるのだ。眠気も吹っ飛んでしまった。

「ありゃー、また目が破けちゃった!」
慌ててバッグから文庫本を取り出すと、文字はちゃんと読める。先生が保証したとおり孔はちゃんと塞がっているらしい。するとこのぐにゃりは何だ?

 ショックが冷めると、私は自分の目で見ることのなかったあの孔のことにあらためて思いを馳せた。あの孔は確かに塞がれている。しかし、たいていの孔は塞ぐのになにか布のようなものを覆って塞ぐ。あて布をしないで縮めて塞ぐとしたら、そのあといくらアイロンをかけても少しは皺が残るだろう。このぐにゃりはその皺に違いない。私は勝手にそう断定し、勝手に納得した。

 その時、目の中でムズリと動くものがあった。
「ちっとは反省しているかい?」
「えっ、なにを?」
「あの時、目もあてられない目に遭ったこの目サマのことだ」

 あの時、そう、手術の時のことだ。私は手術台の上で雲に乗ったようにふわふわといい気分でいた。麻薬中毒者の気分ってこんなのかしらなんて思いながら。

 私はそんな気分でただ横たわっているだけだったが、大変なのは執刀医の先生だ。少しのミスも許されない2時間。

 しかし、もっと大変だったのは確かに私の目そのものだったのだ。メスを入れられ、硝子体を抜かれ、ガスを入れられ、その上濁ってもいない水晶体まで砕かれた。目にとってはとんでもない災難だ。私が夢見る気分でいた時、彼はまさに満身創痍で存亡の危機を切り抜けようとしていたのだ。

「この目をこんな目に遭わせたのは誰だ?」
「へえ、この私メで」

「日頃、目使いの荒い奴だとは思っていたが、ここまでやるとは!」

「ほんとに目配りの足りない事で。以後、目いっぱい反省いたしますから、そんなに目くじら立てて目のかたきになさらないで、どうかお目こぼしを!」

「いい加減にせんかい。このお調子者メが!」

 私が誰かにこのゆがみの事を言いかけると、いつもその目がムズリとする。

「お黙り! ちょっくらゆがんだぐらいでつべこべ文句を言いなさんな! 字が読めたときのあの感激、もう忘れたのかい?」

 こんな叱咤が聞こえてくるのである。



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              目には目を

 ちょっと物騒なタイトルだが、これはご挨拶のお話である。

 先日、入院中、隣室にいた方達からお招きの電話があった。あれから一年経ったので旭川で会いましょうということである。入院期間が比較的長かった彼女達はお互いすっかり仲良しになり、年に何度か会う約束をしたらしい。入院中、彼女達をデジカメで撮ったのが縁で私にもお呼びがかかったのだ。

 ハイハイ、もちろん行きます行きます。すぐさま他の予定をキャンセルしてしまった。いったい、どんな集いになるのだろうか。嬉しくもあり、興味津々でもあった。

 あらまあ! ピンクの病衣にスッピン、眼帯姿だった(こちらも同様だった)彼女達は今、見事に変身してすてきな装いで私の前に現れた。

 「その後いかがですか?」と私の目を覗き込む。私も「おかげさまで。貴女はいかが?」と相手の目をじっと見つめる。日本で日本人同士、こんなに目を見つめ合う挨拶なんて初めてだ。食事中も、その後のお茶の時も、目を見つめ合いながら目の話題に花が咲いた。

 4人のうち50才代が2人、70才代が2人、したがって私はその真ん中である。当然のことに今さらながら気がついた。若い人ほどあれこれ悩み、歳をとるにつれてあまり悩まなくなるということに。

 最年長のKさんは一番重症で、障害者手帳を持っている。ところが一番朗らかであっけらかんとしている。「とにかく、ちょっとでも見えるということはありがたいことだ」こんな言葉を繰り返して笑う。一番若い方が一番深刻そうだ。まだ先が長いのであれこれ案じるのだろうか。

 さて、真ん中の私はどうだろうか。私はこれでも昔は心配性だったのだが、今では日増しにノーテンキになってきた。たいていのことには「そんなことにくよくよしているヒマはもうありませんよ―だ。」でお終い。気力はほんとうに怒ったり、悲しまなければならない時のためにとって置かなくては。ああ、時間と気力があっていつまでもくよくよしていた頃がなつかしい。

 5人のおしゃべりは果てしなく続いた。そして次回は温泉一泊、やっぱり私を呼んで下さるそうだ。また目を見つめ合う挨拶ができると思うとそれはとても嬉しいことである。



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ココロの窓

 「目は心の窓である」昔、聞いたこんな言葉が頭に染み付いてしまい、眼科のお医者さんに目を診察される時、一瞬、たじろいでしまう。日頃、ろくでもないことを考えているのが見透かされそうな感じがするのだ。器械を通して覗かれ、「ああ、きれいですね」と言われれば「まさか、そんなあ」「濁っていますよ」には「やっぱりバレたか」なんてとんちんかんな事を思ってしまうのである。

 20年余り前、横書きの文書の行を読み違える事がよくあって眼科に行った。老眼の始まりだったのだが、その時の女医先生が私の目を診察しながらこう言った。「目は体の中を覗けるたった一つの孔です。そこから健康状態も分かります」

 そのあと、すっとんきょうな声で「あらっ、もう動脈硬化が始まっていますね!」
私の顔が青ざめていくのが自分でも分かった。それから先生はチラッとカルテを見て急いで付け加えた。「まあ、年相応ですね」

 こんな時、喜んでいいのか悲しんでいいのかどちらだろうか。ちょっと恐ろしげなお医者さんだったので詳しい事は訊けなかった。

 あの女医先生のお説の通りだとしたら、これは大変だ。心だけでなく体の中まで見えるのなら、よこしまな心根から日頃の不摂生までまでみーんな覗かれそうでアブない。

 それで私は今でもあの器械にあごをのせる時はちょっとたじろぎ、ちょっと身構える。

 しかし、そんな私でも、たった一度だけ「ココロまで覗いてよお」と思った事がある。初めて検査を受けた時のことである。

 色々な検査をいっぱい受けて、終り近くなった頃、通された部屋には教授らしい先生と数人の若者がいた。すぐにこれは授業だとわかった。先生が私の目を診察したあと、次々に学生が器械の前に来て私の目を覗いた。「あっ、見える見える!」
初めて黄斑円孔というものを見たのだろうか。興奮気味に口々にそう言った。小さな孔を発見した喜びがじわーっとこちらまで伝わってきた。

 しかし、しかし、その孔の持ち主である当方としては一緒になって喜ぶわけにはいかないのである。

 もし大先生がそこにいなければ、私は彼らにこう言ったかもしれない。

「ちょっとお、せっかく孔を見つけたんだから、ついでにその孔の中も覗いて頂戴ナ。その奥で今、私のココロがどんなになっているかお分かり?」


 
ああ、今はそれは無理かもしれない。でもお願い! いつか患者のココロの窓も覗けるお医者さまになって下さいね。


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まぼろしのビキニ

 「達成感のあることをやっていると危ないとテレビで言っていたぞ」
夫が私をじろりと見て言った。 何でも夢中になってやっていると楽しくて疲れも感じないが、そのうち突然、パタリといくというのだ。

 まだパタリとはいったことはないが私も危ない。いや、もしかしてあの目もそのパタリだったのだろうか。

 パソコンでも読書でも編物でも、夫に文句さえつけられなければルンルンワクワクと明け方まで続く。まったく夫の小言どおり私はホドホドをわきまえぬ人間なのだ。

 以前、彼が3ヶ月海外出張をした時などはもう嬉しくて夜な夜な好き放題。朝寝坊するので朝食は10時、昼食は2時過ぎという事にした。しかしこれは大失敗。朝は8時に電話で起こされる。午後は1時に来客で昼食をとり損ねる。やっぱり世間サマの習慣にそむくのは良くない。

 達成感といえば、ああ、あの腹筋運動だ。

 一昨年の12月、私たち夫婦はタイへ出かけた。サムイ島とバンコクに滞在し、帰国前の数日間を王様の保養地であるホアヒンで過ごした。宿は数日だけということでちょっとリッチな所を選んだが、ゲストはほとんどヨーロッパ人だった。

 さすが王様の保養地だ。椰子の木立にさわやかな風が吹きぬけ、居心地は満点。のんびりプールサイドで休んでいると、白象のような(失礼!)老婦人がやってきた。ビキニの水着からはみ出たぶ厚いおなかの皮をぺプラムのように揺らしながら私達のそばを堂々とよろよろ通り抜けていった。

 気がつくと女性は老いも若きもすべてビキニ。ワンピースの水着は私と中国人女性の二人だけだ。そう気がついたあとはなんとも肩身が狭い。娘からプレゼントされた自慢のパープルの水着もここではなぜか野暮ったいのだ。

 私は立ち上がって宣言した。「私、来年は絶対ホアヒンでビキニを着るわ!」

 帰国するとすぐに私のスリム作戦が始まった。この腹筋運動ほど達成感に浸れるものはそうないだろう。体重は少しも減らないが腹囲は効果覿面。

 そして2ヵ月後、ナイスバディにはほど遠いが、希望の灯火が見え始めた頃、なんと私の目にポツリと孔があいたのだ!

 夫も娘達も口をそろえて腹筋運動のせいだと非難した。なにしろ動機が動機だから病院ではもちろん、誰にもそんな事は言えない。それに言ったところであとの祭りである。

 娘達の説に半信半疑であったが、あるとき、手術後のうつぶせが退屈なので腕立て伏せをしていたら出血してしまったというスポーツマンのお話を聞いた。とすると彼女達の説もあながち根拠がないとは言えない。

 手術後すでに1年以上経った。そろそろ再開してみようかと思い、先日、ついに親しい友人に打ち明けてしまった。スポーツウーマンの彼女は即座に言った。
 「きっとそのせいよ、もう絶対したらダメッ!」

 黄斑に孔があいて以来、腹筋運動は一度もしていない。おかげで体形は始める前に完全に復元した。そしてさらに膨張しつつある。ビキニはもう無理なのだろうか?



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             そのお歳で?

 
「え、そのお歳で?」 当たりまえだが私はそう言われたことがない。そう言われるのはあと10年か20年先の話だと思っている。

 しかし、事がパソコンに及ぶと違うらしい。その世界では私も立派なお年寄りなのだ。私が何気なくメールやインターネットのことを言うと、若い人たちは奇妙な顔をして何か言いたそうな口をぐっと閉じる。礼儀正しい彼ら彼女らが「そのお歳で!」の言葉をぐっと押さえるご苦労を見るに忍び難くて、その話題はできるだけ出さない事にしている。

 ある時、30才台のかつての教え子が私のパソコンを見て言った。
 「先生ぐらいの人でパソコンしている人、あんまりいませんね」
 ・・・・・それって「そのお歳で!」の意訳じゃあございませんか?

 ところが同年配の友人達は違う。「あらっ、私もやりたいわ」とくる。しかし、彼女達の前に立ちはだかる壁はおびただしい量のカタカナ用語である。わが国にパソコンを導入した方達はよほど語学能力が無かったらしい。

 「しかし友よ、こんなに便利なものを使わないなんて! 老後に備えて壁を乗り越えようではありませんか!」

 昨年末、オーストラリアに出かけた。さんご礁でシュノーケリング、レンタカーで赤い砂漠を疾走、熱帯雨林の探検等々、また何か言われそうなことをいっぱいやって大満足で帰ってきた。

 ケアンズでガイドの青年から聞いたお話によると、その数日前、67才の小柄な日本女性がバンジ―ジャンプに初挑戦、見事ギネスブックの記録を破ったとか。世界で一番高いバンジ―ジャンプはニュージランドにあるけれども、あまりにも高くて恐怖感が起きないとの事で、ケアンズのが世界一恐ろしいそうである。彼女はそのあと、パラセーリングにも初挑戦すると言って立ち去ったとの事。

 私達に同行した二人のOLは目を丸くしてびっくり。でも私は思わずバンザーイと叫びそうになった。

 67才といえば私同様、戦争や飢餓の時代をくぐり抜け、仕事、育児、老親介護等からやっと解放された年令である。しかし、やっと手に入れたこの自由と平和も束の間のものかもしれない。今こそすべての束縛を解き放ち、大空を軽やかに風のように舞いたいという彼女の気持ちがよーく分かるのである。



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           クチバシが長い

 私の友人でクチバシが長い人がいる。こう言っても北海道以外の方には意味不明であろう。北海道でも若い人には通じないかもしれない。これは私が40年前、来道してから聞いた北海道の方言で一番気に入っているものである。

 我が家でお寿司やおはぎ、或いはお赤飯などふだん作らない特別のご馳走を作り、それが出来上がる頃、きまって玄関のベルが鳴る。「あっ、またあのおばちゃんだ!」娘がそう言った時には、もうおばちゃんはニコニコと目の前に。別に知らせたわけでもないし、ましてや招待したわけでもない。黙っていてもちゃんと現れるのだ。

 こんな人をクチバシの長い人という。鶴などクチバシの長い野鳥がたくさんいる北海道ならでの方言だ。でもこれは決して悪い意味ではない。結構、ぬくもりのある表現なのだ。
 「あなたはほんとにクチバシが長いわねえ」「そうよ、えへへへー」こんな具合である。

 その彼女が突然やって来た。私が退院したばかりでご馳走が何も無い我が家に。これは珍事だ。あれまあ、彼女は退院祝いと称してお寿司を持参したのだ。私がまるで長いクチバシで引き寄せたみたいであった。

 北海道の方言には東北からきたものが多いと言われているが、全国各地から集団で移住した人達もいるので思いがけない地方の方言もあるかもしれない。いずれにしても聞くだけでニヤッとしたくなるようなユーモラスな方言が多い。それらを選んで今に遺した北海道人の気質がうかがえる。

 ここらでちょっとご紹介。

イイフリコキ: 今でもよく使う便利な表現。関西では「エエカッコシイ」
        標準語の「見栄っ張り」よりも暖かい感じだ。

ハンカクサイ: 「愚かな」「ばかばかしい」「トンマな」
        私の失敗談を聞くと若者達は「ハンカクセー」と言って笑う。
        彼らによると私は「ナッマラハンカクセー」のである。

ヘナマズルイ: 「ずる賢い」 これは悪い意味だけではない。
        私の娘が中学でバスケットの試合に出た時、監督が
       「みんながお前のようにヘナマズルクやればいいのに」
        と誉めてくださったそうだ。

カデル:  (仲間に)加える。「私もカデてえ」などと言う。
     札幌にはこれから名づけた「かでる」という公共のホールがある。

バクル: 「交換する」これは牛馬の仲買をする<ばくろう>から来たらしい。
     商店で「こちらの品とバクリましょうか」と初めて言われた時は
     ギョッとしたものだ。ふだんよく使われているので全国共通と思って
     いる子どもが多い。

コチョバシイ: 「くすぐったい」
       大の男でもこんな事を言っているのを聞いたことがある。



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       我が目を疑う

 外国を旅していると、よく我が目を疑う光景に出会う。

 
昨年末、オーストラリアに出かけた時、空、海、大地の色の鮮やかさに驚いた。私達がふつう、自然の色と思っていたのとはまったく異なる、ペンキのようなハデハデの色彩、大自然にはこんな色彩もあるのだと思い知らされた。

 オーストラリア中央部のオアシスの町、アリススプリングスから景勝地を巡ってドライブしていると、道端の標識に我が目を疑った。Next service まであと130km とある。ガイドブックにも載っているような景勝地といえども、130キロ行かなければ、ガソリンスタンドもレストランもないのだ。


 
そのとおり、130キロ、スタンドやレストランどころか人家も人影もなく、車にさえも出会わない。赤褐色の砂利を固めただけの道路を行けども行けども黒焦げのユーカリと枯れ果てたブッシュが続く。最初は大変な山火事があったのだと思っていたが、そうではなかった。

 ユーカリというのはちょっとした熱や摩擦で発火して山火事を起こす。しかし、自分はどんなに焦げても死なない。周りの植物を焼き尽くし、自分だけは蘇り、ちゃっかり大地のすべての栄養分をいただいて成長するのだ。

 やっと130キロ走ると、そこには小さな建物が1軒ポツリとあるだけ。人懐っこい女性が一人、ショーケースからサンドウィッチを出してくれた。そこからは未舗装の赤い砂利道が果てしなく続くが、レンタカーでは入れない。

 途中、所々に景勝地に至るわき道がある。その一つに入り、巨大な倒木を乗り越えながら枯れ沢を行くと、やがて、また我が目を疑うような絶景が現れた。渓谷というよりもむしろ断崖絶壁である。高さ80メートル、鮮やかな赤褐色の岩壁が狭い水場をはさんで垂直にそそり立っている。

 小さなワラビーが一匹、ひょっこり出てきたが、生き物の気配はそれだけ。私は何度も瞬きした。ここは本当にこの世なのだろうか。

 異国を旅していると、まったくその語の通り、異なることばかりで驚く。自然や文化、生活習慣に我が目を疑い、やがて目からウロコが落ちる。何十年もかかって築き上げた自分の概念がもろくも打ち砕かれる瞬間である。私は古いコートを脱ぎ捨てたような爽快感を覚え、ちょっぴり謙虚になる。幾つになっても旅は私に新生の喜びを与えてくれるのである。


 しかし、私は目の病気をして以来、それとはまったく違う意味で我が目を疑うようになってしまった。

 網膜にほんの針の先ほどの孔があいただけで、見えていたものが見えなくなり、見たこともないものが見えるようになったのだ。治療で孔は閉じたが、直線はほんの少しゆがんで見える。

 眼内レンズを入れた方の目で見ると光景は青みを帯びた冴えざえとした色なのに、もう一方は黄ばんで見える。黄ばんだ光景に慣れてしまって、蛍光灯で見るような光景は少し寒々としてなじめない。不思議なことに、両眼で見るとその中間色に見えるのだ。いったいどれが本当の色なのだろうか。

 数年前、マウイ島で小さな博物館に入った。動植物の展示が面白かったが、そこでトンボの目で見た風景というのを体験した。なるほど複眼で見るとこう見えるのかと感心したが、さて、人間の目で見た風景はそんなふうに一つにくくれるものなのだろうか。一人ひとりの顔が違うように、それぞれの網膜に映った光景も違うのではなかろうか。あの病気以来、私はこんな疑念を持つようになった。


 すると夫と眺めたあの忘れられない光景もそうだったのだろうか。

 6年前のことである。私たちはニュージランド南島でレンタカーを走らせていた。目指すはマウントクック。ルピナス揺れる丘を登りつめると、二人同時にアッ!と叫んだ。

 突然、はるか彼方に延々と連なるサザンアルプスが現れたのだ。アオテアオラ(マオリ語での国名で白雲たなびくところの意)そのままの空のもと、輝く雪を頂く連峰はこの世のものとは思われないほど神々しく美しかった。

 車を降りて、二人は声もなく立ちずさんだ。その時、私は夫と感動を共にしていると思ったが、今、ふり返ると、夫の見た光景と私のとでは微妙に違っていたのかもしれない。そしてその感動も。


 
そうだ、あの時、二人の間に流れていたのは旋律もリズムも異なるけれどもハーモニーはぴったりの感動の2重奏だったのだ。

 やがて、もう1台、車が登ってきた。私達のそばで急停車すると、中年のカップルが転げるように飛び出してきた。「ワンダフル!ワンダフル!」と満面に笑みを浮かべて私たちに握手を求めてきた。

 私たち4人は時を忘れてその光景に見入った。彼等の青い瞳と、青灰色の瞳にはこの光景はどのように映っていたのだろうか。どんなふうに映っていようとも、あの時、4人の周りで渦巻いていたのは高揚した感動が奏でる美しい4重奏だったのだ。



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            転んだおかげで

 友人達は私のことを転んでもただでは起きない人だとからかう。
とんでもない! 自慢じゃないが、小さい時からボンヤリミッチャン、グズのミッチャンで通ってきた私だ。そんな事を言われる筋合いはないと思っていた。

 しかし、今回の病気で得たもののことを考えると、私も案外、根はチャッカリしていたのだなと思わざるを得ない。

 第一に、世にも珍しい体験をし、すばらしい人たちと出会ったことだ。眼科の先生方や看護師さん達やその他のスタッフ達、みんなみんなやさしくて親切だった。私が字が読めるようになったこともとても喜んでくださった。
 こんなすてきな人達に囲まれて過ごした2週間は私のこれまでの人生でも特記すべき幸せな日々であった。字が読めたときの感激と共に、これらの日々のことは決して忘れられないだろう。

 次にこれを機会にホームページを作る事が出来たことである。
病名を知った時、パソコンを持っている人なら誰でもするように、私もインターネットで情報を探してみた。
 しかし、病気のことは分かったが、体験記のようなものは見あたらず、患者側の情報は得られなかった。そこで入院する前から自分の体験記を作ってみようと心づもりをしていた。独力でホームページを作るのは苦労も多かったが、実りも大きかった。いろいろな方達との新たな交流も始まった。


 
また、病気をきっかけに音楽が私の生活にしっかりと根付いたのだ。今も、毎朝6時にFMの<朝のバロック>で目覚め、就寝前のひと時はCDで音楽を楽しむ。街に出ると本屋だけでなくCD屋も必ず覗くようになった。
 また、旅行も今までは美術や建築を見て楽しむ事が多かったが、それに音楽というテーマが加わり、旅の楽しみがいっそう深まった。(この事についてはまたあとで書いてみたい)
これほど音楽を楽しむことは以前にはなかったことである。

 そしてなによりも、あのうつ伏せの体験が私に大きな事を教えてくれたのだ。

 闇の中で私は音楽を深く味わうことができた。思いがけない事だったが、それはまるで演奏者の心情にまで分け入っていくような深い味わい方であった。
 音楽だけでなく、さまざまな形の無いものの存在を感じ取ることができた。明るい世界ではその陰にあるものが見えていなかったのだ。

 看護師さん達の足音や声、背中に当てるその指先から、そしてその息遣いからさえ一人ひとりの人柄や個性を感じ取ることが出来たのである。それは目がちゃんと見えている時には全然、感じ取ることが出来ないことであった。

 光を失っても天はそれに代わるもの、あるいはそれ以上のものを与えてくれるのだ。この想念はあの時得た最大のプレゼントであろう。今でもそれを思い出すたびに、私の心は深い安らぎを覚えるのである。                     2003年8月


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  とっぷ         黄斑円孔治療         黄斑つれづれ