道新に掲載された、なつさんの子供のころの話・第3回目と4回目(最終回)分の
アップです。

1回目と2回目はこちらへ。
     
      B'01 2.24 まずはキーパーから
ぼくがサッカーを始めたのは、生まれ育った千葉県船橋市の習志野第二小5年生の時です。 前にも話しましたが千葉県はサッカーの盛んなところ。でも、子供の僕が最初に熱中したスポーツは野球でした。みんなは意外に思うかもしれないけれど、それまでは、サッカーのサの字も知らなかったんだよ。 実は、サッカーを始めた由来も、地域の少年チームでやっていた野球がもっとうまくなりたいためでした。父から、足腰を鍛えるにはサッカーが一番良いと言われ、それでサッカーチームに入れてもらいました。 ところがサッかーの方が面白くなってね。なぜか、って? まず、何と言ってもゴールを決めた時の喜びかな。それと、サッカーを絶えず動いていられるよね。自分が主役になれる部分が大きい。そんなところが野球よりもいいと思いました。 僕はコンサドーレ札幌ではDFをやっていますが、小学校ではドッジボールが得意だった事もあって、まず、ゴールキーパーをやらされました。正直言って練習は嫌な時もあったけれど、シュートの練習は大好きだったよ。それと、チームの中でミニゲームをするのがすごい楽しみだったな。  後列、一人だけユニの違うのがなつさん。
相変わらず見づらくてすんまそん(^^;
 僕はいつの間にかサッカーのとりこになり、毎日暗くなるまで校庭でボールをけっていました。5年生の時、キーパーとして初めて出場した大会『千葉県つよいこ杯』では準優勝したよ。小学校のサッカーは何より、楽しくなくちゃぁ。もともと無口な子だった僕も、サッカーうを始めでからは、人前でちゃんとものが言える様になりました。  その後僕は、習志野第二小から市内の坪井中学、さらに、同じ千葉県の習志野高校に進学し、中学、高校ともにサッカー部の主将(キャプテン)を務めました。 子供時代の話からはちょっとはずれますが、最終回の次回は、プロの道も含め、僕とサッカーとの関わりを詳しく話したいと思います。
C'01 3.3 楽しむことが一番。

ぼくが進んだ千葉県の習志野高校サッカー部は、全国高校総合体育大会(インターハイ)と全国サッカー選手権で、合わせて3回日本一になるなどサッカーの名門校として知られています。 ただし、全国優勝したのは先輩と後輩達で、ぼくらの時代は残念ながら、あまり強くなかった。日本一どころか3年間、全国大会に出ることもできなくて、キャプテンとして悔しい思いをしました。でも、悔しさが次につながる事ってあるよね。僕の場合、3年生の高校選手権が予選の準々決勝で敗れ、何かに燃え尽きないまま高校生活を終えた事が、かえってプロの道を目指すばねになった気がします。 
実は、卒業後はホテルマンになる事が決まっていたんだよ。でも、やっぱりサッカーを続けたかった。  習志野高でサッカーの厳しさを教えてくれた本田祐一郎監督にも相談して、社会人サッカーの名門、フジタ工業の入部テストを受け直し合格できました。 僕は一日中机に向かって仕事をするサラリーマンは似合いません。でも、フジタ工業では最初、お金を扱う堅苦しい仕事を命じられ上下スーツにネクタイをして東京の新宿で銀行回りをしてたんだよ。 といっても他の社員と違い、仕事は午前中だけで終わって午後からはサッカーの練習をする毎日でした。 やがてプロに近い扱いを受け、試合に勝つと『勝利給』の名目で2万5千円が会社から出ました。僕は1992年のバルセロナ五輪の代表に選ばれました。その後Jリーグのベルマーレ平塚(現在の湘南ベルマーレ)からコンサドーレ札幌に来た事はみんなの知っているとおりです。  よく『どうしたらサッカーがうまくなるか』と聞かれます。日本人には、サッカーだけ、あるいは野球だけ、というタイプが多いけれど、子供の時は色々なスポーツに親しんでほしいな。  そして、小学生のサッカーは、とにかく楽しむ事。そこから始まると思います。