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英雄

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「いいかい、ヒャークー。軒下の天水甕(てんすいがめ)の中を覗いちゃ駄目だよ。落っこちたら、溺れて死んでしまうからね」

王都・首里(しゅり)から遠く離れた読谷山(ゆんたんざ)で、畑仕事に精を出す母が、ある日そう言った。母一人子一人の家庭に育った幼いヒャークーは素直にうなずいた。

ヒャークーは体が大きい。まだ三歳だが、七歳児くらいもあろうか。そして、好奇心が強かった。ヒャークーはもうその日のうちに、手頃な石を持って来て、それを足場に甕の中をぐっと覗き込んだ。

「母ちゃん、母ちゃん! 大変だ! 早く逃げよう! 怪物が居る!」

炎天下、鍬をふるっている母の腰に、ヒャークーは抱きついた。

「……お前、天水甕の中を覗いたんだね?」

母は静かに溜め息をついて、ヒャークーを強く抱きしめた。

「いいかい、よくお聞き。お前が見たのは、水鏡に映った、お前自身の顔だよ。お前は、シベー(みつくち)なんだ」

「……シベー……」

農作業を終えた若者達が、男女一緒に毛遊び(モウアシビー)と称して、近くの広場に集まって、歌ったり踊ったりする。ヒャークーも十五、六歳になると、おいらも一緒に楽しくやりてえな、と思ったが、自分の顔を思うと遠慮した。その頃から、ヒャークーは屈折していった。

「読谷山シベーに、財産全部盗まれた!」

「おれんところもだ!」

そんな会話が巷で聞かれるようになった。

ヒャークーのこの二つ名は、沖縄中に轟きわたった。非道なことこそしないが、大きな体を闇夜に軽々と走らせる、一端の盗人だ。

士族達も百姓達も、平和な琉球を汚す悪党め、と眉をひそめた。

そのうちに、世替わりの時がやってきた。

明治十二年、琉球王国は、明治日本によって強制的に沖縄県として、ヤマトに組み込まれた。ヒャークーは二十八歳になっていた。

百姓の暮らしが厳しいのは相変わらずだった。ヒャークーは世の中が余りに騒がしいので、しばし、身を隠すことにした。そして翌年――つまり今年の秋。新北風(ミーニシ)が吹いて、亜熱帯のこの島にも涼しい季節が到来したのを期に、ひとつ面白いことをしてやろうと考えた。

ある朝、那覇の市場に近い道を、三十がらみの、散切り頭に、精悍な顔をした大男が、着流し姿で、血相変えて走っていた。一目でヤマト人とわかる。その男の前を、やはり巨漢の警部がサーベルをくるくる回しながら機嫌よく歩いていた。口髭が見事だった。

 市場に集まっていた人達は、ヤマト警官などとうっかり目を合わせて難癖つけられてはかなわないと、息を詰め、ちらっちらっと様子をうかがっていた。

「待て! そこの図体のでかい警部、こっちを向け!」

怒鳴ったのは、着流しのヤマト人だった。

口髭の警部は、一瞬固まったが、ゆっくりと振り向いた。

「俺の制服制帽、サーベル、一式まとめて返してもらおうか。官舎からかっぱらっていくとはいい度胸だ!」

人々は、えっという顔で、ふたりの男をしげしげと見た。

「ちぇっ、ばれちまったか」

制服警官のほうが、つけひげをはがした。

「読谷山シベーだ!」

ひとりの野次馬が叫ぶと、そこにいた人々が、おおっと驚きの声をあげた。

それが合図になったように、ヒャークーとヤマト警官が激突した。ふたりは取っ組みあったまま、押したり押されたり、なかなか決着がつかない。

「読谷山シベー!」「ヤマト人なんかに負けるな!」「読谷山シベー!」人々が一斉に、ヒャークーを応援し始めた。興に乗って指笛を吹く者達も出てきた。

ヒャークーは思わぬ声援を受けて、うおおおおおっと雄たけびをあげると、ヤマト警官を投げ飛ばした。

「読谷山シベー!」「読谷山シベー!」「よくやったあ!」

人々の声を受けて、ヒャークーは嬉しいような恥ずかしいような気になった。

気を失って倒れているヤマト警官を残して、走り出した。

どこまで来ただろう。気がつくと、そこは人っ子一人いない野原だった。ヒャークーの熱くなった体に、新北風が気持ち良い。

 ――読谷山シベー!

人々の声援がまだ耳に残っていた。

                
(完)

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