日本捕鯨協会の発行する「勇魚」から

世界の有識者による数々の論説のなかから、特に制作者の選択した数編を日本捕鯨協会のご協力のもと引用させて頂きました。


反捕鯨に根ざす無知とロマンチシズム

メアリー・キング

英国ジャーナリスト

 昨年の夏、国際捕鯨委員会(IWC)の年次会議が開催されていたときに、私は英国にいた。母と一緒に昼食をしている間、BBCのlWC会議関係のニュースが流れ、日本の漁業者が捕鯨砲でミンククジラを殺している場面が放映された。

 私は、以前に牛や豚の屠殺場面や鶏が熱湯に投げ込まれるのを見ていたため、BBCの捕鯨の映像になんら衝撃を受けなかったが、母にとっては大変なショックだった。流血の場面や鯨が苦しんでいる場面は映しだされなかったものの、このニュース番組は視聴者の神経を逆なでするものであった。母の反応はその日テレビ・ニュースを見た多くの英国人の典型的反応であったろう。

 母は皿を不快そうに押しやって、人生の中でもっとも不快な場面を目撃したようにテレビに向かって叫んだ。「本当にひどい。なんであんな美しい動物にこんなひどい仕打ちができるのだろう。」

 それから母は私のほうを振り返り怒りを込めていった。「おまえ、恥ずかしいと思わないのかい。こんな殺しかたを見たあとで、どうしてクジラの肉など食べられるのかい。」

 母の反応は私にとって意外ではなかった。ニュース番組は三分も続かなかったが、私は、マスメディア、特にテレビが、我々のものの見方を作り上げるだけでなく、しばしば自分たちが育ってきた文化の価値観を支えているということを実感した。BBCの報道はバランスを取り、感情に流されず、公平を期すように企画されていたが、報道番組はうたがいなく、動物の屠殺シーンを見せることで、平均的な英国人の感情を害するものであった。西欧人のなかでおそらく、英国人は、動物愛護についてもっとも敏感であることで知られている。事実、多くの人々はこれが英国人の最も愛すべき奇癖の一つと考えている。しかし、残念なことに、英国人の動物に対する思いやりの気持ちは、子ども、老人、社会的弱者には同じように向けられることはない。

 BBCの報道は、また先進工業国(特に、西欧や北米)では、人々は自国や貧困国の恵まれない人々の苦しみには慣れっこになっているが、動物を苦しめる人たち(とその様に思い込んでいる)に怒りを向け、動物に慈愛の手を差し伸べるという悲しい事実を浮き彫りにしたように思えた。

 私の母は平均的な英国人と同じく、ブルンジ、ルワンダ、ザイール、ボスニアなどの人たちが直面する悲惨な状況をテレビで見ながら、何ら不快感を覚えることなく食事ができる。しかし、動物虐待の番組を見ると、ただちに、「動物への残虐行為に反対する英国王立協会」やWWFにただちに小切手を送るのである。

 BBCの捕鯨番組が母を怒らせた背景には、アイスランド、ノルウェー、フィンランドをのぞき、ほとんどの西欧諸国の人々にとって「クジラを殺し、食べる」という考えは理解しがたいという事実がある。クジラはヨナとクジラなどの聖書の話しやピノキオなどのおとぎ話と結びついており、多くの人々の心の中でロマンチックな存在になっている。マスコミも、クジラは絶滅に瀕しているか、絶滅に向かっている種だとたえず繰り返している。そのため、ホエールウォッチングが、自分たちの孫の世代はこの壮大な海の生き物を見ることはあるまいと考える多くの西欧人の旅行計画に入れられることになる。クジラは、未来に神秘的な世界を開示してくれる壮大な哺乳動物であり、ホエールウォッチング・ツアーは、それを間近にみるという希有な機会を与えてくれるという意味でロマンチックな感情を掻き立てる。私もカナダや南アフリカでホエールウォッチング・ツアーに参加したことがあるが、決して安い娯楽とは言えない。ホエールウォッチングは膨大な利益を上げているが、クジラに近づきすぎたり、触ろうとして、鯨を神経質にしていることについてはあまり報道されていない。バハ・カリフォルニア沖などで、クジラに近づくというユニークな経験をするために、カメラを抱えて押しかけた観光客が、クジラの繁殖活動を妨害したという報道を2度ほど読んだことがある。将来自然界でのクジラの行動様式に悪影響をおよぼすような事態が増えることは間違いない。そしてホエールウォッチングはクジラを幸せにするよりも、金もうけが目的であることが明らかになるだろう。将来多くの町や村がホエールウォッチング産業に乗り出し、観光客の気まぐれを満たす代償として環境破壊が進むだろう。地元住民は、バスで波のように押し寄せる観光客や、ごみや騒音で迷惑を被るだろうが、ホエールウォッチング・ビジネスの利益が優先されることになる。

 あまりにも多くの無知がクジラ問題を取り巻いている。多くの西欧人は、日本人が情け容赦なく絶滅の恐れがあるクジラを殺していると信じ込んでいる。中には資源状態が深刻な鯨もいるかもしれないが、これは日本の捕鯨者が捕獲している鯨種ではない。日本が捕獲している南極海のミンククジラ資源は76万頭以上生息するといわれ、初期資源を上回っている。1992年にIWC科学委員会は、資源全体の健全性を損なうことなく、年間2000頭の捕獲が可能だと推定した。

 また世界中の人々、特に西欧人が他の国々の慣習や価値観を受け入れようとしないのは悲しいことだと思う。他の国々の文化や習慣を尊重すれば、国家間の戦争や政府間の対立も少なくなるだろう。

 もちろん、欲しいものはすべて手にし、自分たちの価値体系だけが正しいと信じ、何ら行動せずに、肌の色、宗教、習慣、食文化などで、他者を批判するばかりでは、妥協は容易ではない。

 母は、私が鯨肉が好きだということで私を非難したのだが、私は母が別の文化的視点から捕鯨を見られるよういくつかの問を投げかけた。

 母はずっと都会に暮らしており、田舎に行くことはめったにない。田舎では、キジやウサギを鉄砲で撃ち、犬を連れてキツネ狩りに出かけるのは日常茶飯事である。また、母は海に行くこともめったになく、行くとしても海水浴くらいである。だから、漁民が魚を捕り、はらわたを取り出し、皮をはぐところを見ることもない。先進工業国にすむ多くの人々と同じく、母にとって肉や魚はスーパーマーケットで買うものである。そこでは、肉や魚はこぎれいにプラスチック・バックに入れられ、包装されている。内臓や毛や血の痕跡はほとんど見られない。先進工業国の大都会にすむ人々は豚、牛、鶏などの屠殺現場を見ることはほとんどなく、動物を殺すことを考えただけで震え上がる。私の母のように、ウェイトローズやテスコスなどのスーパーマーケットで肉や魚を買うが、そこでは死とか苦痛を想像させるものはなにもない。しかし、特に第三世界や開発途上国では、レストランで食事を待つ間または市場で肉の代金を払う前に、目の前で豚や鶏が殺されるのはとりたてて不思議なことではない。

 私はまた、かりに母がヒンズー教徒であり、狂牛病のために何十万頭という英国の牛が大量屠殺されている光景をBBCが放映したとしたら、どのように感ずるか考えてほしいと言ってみた。BBCは殺されていく牛の姿を映像で流しはしない。そのような映像は一般的な英国人をおびえあがらせ、狂牛病に対する国民の怒りをさらに煽ることになろう。狂牛病騒動は英国の農民に大きなダメージを与えただけでなく、現政権に国内の支持を失わせ、また他のヨーロッパ諸国との関係においてイメージの失墜につながった。さらに悪いことには、ある種の牛肉製品を食べた人が狂牛ビールスに感染し、死亡したという疑いも出ている。

 我々は皆自分たちの文化に閉じ込められている。しかし、盲目的に他国民を非難する前に、我々自身の価値観における矛盾を正視し、我々が攻撃しようとしている人たちの主張を理解するよう努めるべきである。

 ミンククジラは絶滅のおそれある鯨種ではない。鯨は、日本の食文化に根を下ろした一つの価値であり、高度の栄養価をもつ食物である。外国のある人たちが鯨のイメージを理想化し、鯨が捕獲によって絶滅に追いやられ、将来、孫の世代に伝える痛ましい、伝説上の生き物になってしまうなどと主張したとしても、日本国民は鯨食文化を放棄すべきでない。




誰がIWCから去るべきか?

ステファン・S・ボイントン

ヘンケ・アンド・アソシエイツ社
副社長 / 法律顧問

 1年前の今頃、日本が引き続き国際捕鯨委員会に参加することが賢明か否かという疑問が浮上した。

国際捕鯨委員会の、偽善的で違法ともいえる一連の活動によって、ある者は、豊富な鯨種 を対象に捕鯨を行なうつもりであれば、カナダやアイスランドに続いて、捕鯨国は今こそlWCを脱退すべきだとの信念を持つに至った。これら捕鯨国である島国や沿岸国は、1000年以上の歴史を持つ文化遺産の継承をひたすら求めてきたのである。

 米国を始めとするlWCの加盟国は、国内の政治的配慮を優先してlWC内での対応を決定してきた。これらの国々の決定は、日本やノルウェーといった捕鯨国にとって不都合かつ再生可能資源の管理とも関係のないものであったが、結局、日本とノルウェーは国際捕鯨委員会に留まることとなった。

 あれから1年後の今日、再びlWCからの脱退を検討する時がきている。だが、今回は日本やノルウェ−といった捕鯨国の脱退ではなく、他の国、つまり、英国、オーストラリア、ニュージーランドのことである。

 このことを理解するには、国際捕鯨委員会設立の基となった国際捕鯨取締条約を振り返る必要がある。1946年にロンドンにおいて、15ケ国が署名したこの条約は、科学に基づいた“捕鯨産業の秩序ある発展”をその目標に設定している。

 もし言葉というものが意味を持つものであれば、lWC憲章の文言は、署名国が科学的手段によって世界の鯨類資源を保護し、捕鯨産業の秩序ある発展を図るものと解釈される。条約締結後、さらに18ケ国がlWCに加盟し、この憲章に署名した。

 1982年、lWCは“一時的な”世界規模の商業捕鯨モラトリアムを実施した。当時モラトリアムを支持した加盟国は、限定的な捕獲が鯨類資源に悪影響を及ぼさないと科学的に証明されれば、1990年までに商業捕鯨の再開が認められるであろうと言っていた。今は1997年であるが、この違法な捕鯨モラトリアムは依然として効力を有している。限定的な捕獲が求められている鯨種は、絶滅の危機に瀕しているどころか、豊富に生存しているということが科学的に証明されているにもかかわらず、この捕鯨禁止措置は継続されているのである。

 lWCの加盟国は繰り返し、国際捕鯨委員会の基となる条約を蔑ろにしてきた。これらの国々は厳粛であるべき条約を、あからさまに蔑視してきたのである。

 トニー・ボールドリィ漁業大臣は英国議会への1996年5月8日付け書簡の中で、“英国民の圧倒的大多数および英国議会は商業捕鯨に反対である。従って、英国は現在の商業捕鯨モラトリアムを解除しようとするいかなる動きにも反対する”と述べている。

 言葉を変えれば、国民の感情や国内の政治的配慮の方が、国際条約よりも重要だということである。この国際条約は50年前に、この国の首都で署名されたものである。

 英国政府が国内政策に適用する限りに於いては、ボールドリィ大臣の発言は全く問題はない。また、国内政策が政府の外交政策に影響を及ぼさないと考えるのも、愚直なことである。

 しかし、英国の姿勢は、lWC設立の基礎となった条約に違反するものである。英国の態度は、“もはや神を信じていないが、教会には留まりたい”と言っているのも同然である。ボールドリィ大臣の言葉はまた、英国が商業捕鯨に携わっていたという事実を無視するものである。国際捕鯨取締条約が1946年に締結された当初、英国の代表は、捕鯨の継続を支持するように政府より指示されていた。英国は第二次大戦後の困窮状態から、国民にタンパク源を供給するため、どうしても鯨肉を必要としていた。

 自ら著名した条約に違反し、過去に捕鯨に依存していた事実を無視するという二重のジレンマに直面している英国であるが、その解決策は至って簡単である。

 国際捕鯨委員会からの脱退である。そうすれば、英国政府は諸手を挙げて商業捕鯨に反対できるのである。

 その他2国の脱退も然りである。1996年6月にスコットランドのアバディーンで開催されたIWC会合では、オーストラリアとニュージーランドの代表も英国のボールドリィ大臣と同様の発言を行なった。

 1996年6月28日の議論の際、オーストラリアのコミッショナーは“オーストラリア新政府は商業捕鯨に強く反対の姿勢をとっており、商業捕鯨を国際的に永久禁止することをその目標としている”と述べた。また同じ議論の場で、その後も同じ所見を繰り返し、“すべての捕鯨に終止符を打つことが、オーストラリアの政策であるということを明確にすることが重要であると考える”と訴えた。

 議論の中で、ニュージーランドのコミッショナーも、“ニュージーランドの立場もオーストラリアと全く同様である”と話している。

 これら3ケ国政府の明快な見解を賞賛する者がいる一方で、これら政府の対応に息を呑む者もいる。

 世界中の大半の国々が何百とある条約に署名しているが、それは条約加盟国が、それぞれの条約の定めに従うことに同意したということを意味する。それらの国々は、条約の規定に従って行動することに同意したわけである。

 今年のlWC年次会議は10月にモナコで開催されるが、このヨーロッパの小公国は、賭博カジノでよく知られている。カジノに入る時は、ルールを守ってプレイすることに同意する。いかさまをすれば、追い出されるが、悪くすれば、警察を呼ばれることになる。

 15ケ国が1946年にIWCを設立する条約に署名し、またそれに引き続き18ケ国が署名した際に、それらの国々は条約の規定を遵守し、ルールに従い行動することに合意したのである。

 1946年の合意の際に掲げられた目的のひとつは、“捕鯨産業の秩序ある発展”である。条約に署名する際、加盟国はこの概念に同意したのである。

 今や英国、オーストラリア、ニュージーランドの3ケ国は、商業捕鯨への反対をはっきりと宣言している。

 10月のlWC期間中に、モナコのカジノに行けば分かると思うが、ルールを守らずにプレイすれば、出て行くように求められるのである。

 これら3ケ国はこれまでlWCのルールに従わずにプレイしてきたのだから、脱退すべきである。

 もし、これらの国々が自発的に脱退しないのであれば、10月のlWC会合でまず最初にしなければならないことは、“捕鯨産業の秩序ある発展”という言質に同意しない加盟国に対し、脱退を求める決議を採択することである。この決議が採択され、実行されるまで、他のいかなる議論も始めるべきでない。

 そうしない限り世界の国々は、英国、オーストラリア、ニュージーランドの3ケ国が他の国際条約で誓った言葉の価値について疑問を持ち始めるに違いない。

 彼らの言葉は信じるに値するであろうか?


(ステファン・S・ボイントン氏はワシントンで個人弁護士を営んでいる。ヘンケ・アンド・アソシエイツ社の副社長兼法律顧問、それに資源の持続的利用を求める国際NGOである国際野性生物管理連盟の副会長を務めながら、lWCやClTESにもNGOとして参加している)




今、南氷洋のシロナガス鯨資源を回復するには何が必要か

島 一雄

水産庁次長
IWC日本政府代表

 捕鯨の歴史は周知の事実の通り乱獲の歴史であります。その象徴が過去及 び現在の地球上最大の動物で、体長30メートル、体重150トンに達するシロナ ガス鯨であり、南氷洋・太平洋・大西洋・インド洋と広く分布しています。 南氷洋において1925年から僅か10数年に20万頭が捕獲され、その資源は大幅 に減りました。1964年には資源減少のため、その捕獲が禁止されています。 また、僅か700頭にまで激減したと推定された1964年から現在まで、捕獲が禁 止されているにも拘らず、その資源は一向に回復する兆しを見せていません が、我々はこの事実を正確に把握する必要があるのではないでしようか。

 私は以前からシロナガス鯨については単に捕獲を禁止するだけの消極的な 回復策では不十分だと考えており、その資源を阻害している要因は何か、ま たその回復のためには一体何をなすべきかをその資源の枯渇に手を貸してき た国々を中心に真剣に考え、各国が協力して積極的に責任ある行動を起こさ なければならないと主張してきました。この様な考えに基づき、昨年のIW C京都会議では我が国は率先して南氷洋鯨類生態系の初期の状態への回復、 とりわけ回復の兆しを全く見せないシロナガス鯨等大型鯨類の回復調査を提 案し、各国の支持を得ました。そしてこの調査の実施に先立ち、我が国は既 存のIDCR調査や南氷洋捕獲調査を活用し、一昨年秋より予備調査に着手 しております。これは鯨の繁殖、行動回遊等の生態を調べ、何がシロナガス 鯨の資源回復を妨げているのかその原因を解明しようとするものです。調査 には多くの方々の協力が必要でありますが、シロナガス鯨の生態を解明する ためには不可欠な調査であります。

 一昨年IWCにおいて、フランス代表は南緯40度以南の南氷洋を鯨の聖域 (サンクチュアリー)とする提案を行っていますが、南氷洋ではシロナガス 鯨の捕獲によって生じた生態的空白にミンク鯨、カニクイアザラシ、及びぺ ンギンなど繁殖力の旺盛な小型の海産動物が大幅に増加し大型鯨類の回復を 阻止しているとの説を、ケンブリッジ大学・ローズ博士、ロンドン大学イン ぺリアルカレッジ・ベディントン博士、ギャンベルIWC事務局長など、数 多くの科学者が警告しています。現在の南氷洋にサンクチュアリーとして生 態系を放置して何も行わないのがよいのか、人間の手によって破壊した南氷 洋の生態系を回復する努力をするのが良いのか、どちらが真剣にシロナガス 鯨の回復を考えているのか明白でありましょう。

 英国、ノルウェー及び我が国を含めかつてシロナガス鯨を競って捕獲した 捕鯨国は過去の歴史を真摯に反省し、今こそ科学調査を実施してシロナガス 鯨回復のために適切な管理を行うことは当然の義務であります。一度破壊さ れた生態系を元に戻すことは、並大抵の努力では出来ません。しかし、我々 は破壊の責任を取って、後世に有意の資源と環境を伝えなければなりません。

 かかる観点から、今回我が国が主導したシロナガス鯨回復調査の持つ意味 は重大であり、我が国は積極的に各国に働きかけ本調査を成功に導く必要が あります。

 今回の勇魚「シロナガス鯨特集」を通じてシロナガス鯨及び捕鯨問題につ いての認識が深まり、鯨類資源の適切な保存と管理についての議論が活性化 されることを切に希望するものであります。




動物の権利擁護運動は人間の権利の否定につながる(クジラ問題をめぐって)

ユージン・ラポワント

国際野生生物管理連盟会長
ワシントン条約前事務局長(1982-1990)

1.序文

 地球上で唯一の理性的生き物である人間は、積 極的に自らの権利を押し進め、守っている。人権 は様々の国際機関で主要な問題となっており、援 助機関は人権を資金提供の条件としている。また 人権問題は、講演や会議の重要なテーマとして取 り上げられている。人権侵害は、王権国家が軍事 侵攻を行う理由になることさえある。

 国際社会は、「人権を尊重すべきであり、これに 反する者は社会の制裁を受ける」との原則を打ち 出した。しかし、そのような遠大な原則とは裏腹 に、世界の現実はそれとは異なるという大きなパ ラドクスが生まれている。

2.誰の権利か

 国際社会の無法者たちが、自由と権利の基本概 念を、堂々と意図的に無視し、踏みにじっている。 哲学は、自由と権利が交錯する社会構造の様々の 要素の間に数学的関係が存在することを教えてい る。単純にいえば、ある人間の自由は、(彼がかか わる)他の人間の自由が始まるところに終わると いうことである。同様に、ある人間による別の人 間の権利の侵害は、二人の当事者間の権利のバラ ンスをくずす。

 同じ基本的関係が、人間が住む環境の一部であ る他の生物と人間の間に存在する。動物に与えら れた権利は、人間から奪われた権利であり、人間 の生存の能力を狭めるだけでなく、その存在の基 盤を危うくする。この点に気付いた人は少ない。

 この悲しむべき現実は、ある国の政府および環 境保護非政府機関(NGO)が動物の新しい権利 を作りあげて行くやり方に如実にあらわれてい る。事態は、特定の動物と相互関係をもつ人間の 権利が損われるというところにまで至っている。 例えば、クジラのような海産哺乳動物(またはゾ ウのような巨大な生き物)には、様々な権利が与 えられており、それがもたらす結末は驚くべきも のである。以前は人間の権利として認められてい た活動は、いまや動物王国への犯罪行為であると 考えられている。

 もちろん、そのような事実をおおっぴらに認め る人も団体もない。人間の生存を妨害するような この現実を覆い隠すために、国際会議での工作、 用語の定義、意味論の乱用などの手段が用いられ る。

3.取引をすべきかすべきでないか―それが問題だ

 先の国際捕鯨委員会(lWC)の決定から生じ た考え方との関連で、「捕鯨調査のための国際ネッ トワーク」誌の最近号(No.6、1994年8月発行) から以下の箇所を引用したい。

 「lWCでは原住民生存捕鯨は許容されている。 (その理由は、原住民生存捕鯨は産業型捕鯨とは 異なり、技術的に単純であり、貨幣を媒介とする 交換を含まないためだとされている。)他方、非原 住民的/商業捕鯨はこれとは反対の理由で認めら れていない。産業型捕鯨に対する誇張されたおそ れの多くは、物品と金銭の交換を許すことは必然 的に悪い結果をもたらすというマルクス的信条に 基づいている。これは反捕鯨グループの年間収入 が数百万ドルにのぼることを考えると奇妙な信条 である。」

 ある種の生き物―すなわち、クジラ―が現 在、商業的捕獲を免れる権利を与えられている。 鯨は商業捕獲から保護される権利を与えられてい るだけではない。商業活動の概念が今までよりさ らに拡大されている。商業活動に関する新しい基 準が設けられ、そのために、以前には商業の概念 にあてはまらなかった人間の活動さえも対象とさ れるに至っている。

 1993年会議で、lWCは4つの小型捕鯨共同体 のための50頭のミンククジラの救済枠要求から 「商業的要因」を排除するよう日本に要求した。 日本はlWCのこの要求に応えるためにできるか ぎりのことをしたが、ここで「商業」の定義に新 しい特質が加えられたことに直ちに気付いた。

 「商業活動」の定義が歪曲され、低級、不当か つ非人間的な活動におとしめられたことで、「汝ク ジラに触れるなかれ」という捉がさらに強められ た。つまり、今クジラが権利を獲得したため、人 間の権利が失われたというわけである。

 クジラに与えられた権利にこの新しい定義を適 用することで、国際社会は、人間の生存の基盤と なる活動と権利に新しい妨害要因、違反項目を作 り出した。

 人間(ホモ・サピ工ンス)が社会的な生き方を 始めたときから、商業と取引は生存の基盤、生活 様式であった。商業と取引に不正の概念はまった く含まれていない。人間がサービス、贈答品、商 品を様々の異なる形態で表わされる価値と交換す ることに、なんらやましいところはない。それど ころか、それは、文化、価値、倫理の重要かつ基 本的な部分である。

4.しかし、一体何のために

 人間にとって正常かつ不可避の商業活動が、ク ジラのようなカリスマ性をもつ野生生物種にあて はめられると、なぜ受け入れられないものになる のだろうか。

 本稿の趣旨は、人間から基本的な権利を奪う者 たちの責任を見定め、彼等の戦略を明るみに出し、 その動機を明確にするところにはない。いずれに せよ、これは周知の事実である。これは、以下に 引用する前掲記事の次の箇所に要約されている。

 「多くの団体の代表者、とりれけ、動物の権利 擁護、動物福祉、その他関連の環境問題を扱うグ ループの代表にとって、lWC年次会議は、並み 居るジャーナリストや政府関係者の前で、自らの 考えを披瀝する格好の場となっている。捕鯨産業 は、経済的に見れば過去の規模とは比べられない ほどに縮小したが、その一方、クジラ保護産業が (財政的にも人員の数でも)残存する捕鯨操業の 数倍の規模に膨れ上がったことは皮肉である。」

 多くの国が、国内および国際的権益を守り、緊 急事態に対処するために自国民の文化、伝統、倫 理を犠牲にしてきた。しかし、近代において、人 間が、取るにたらぬ政治的関心および個人利益追 求の犠牲になるのはこれが始めてである。この人 間の権利の乱用は、クジラと人間の間の関係の問 題となんら関わりがない。それは、この世界の現 実を無視し、ただ政治・経済的目的に見合うよう 作り上げられた環境政策の帰結にすぎない。

 ある政府が静観的態度をとり、また別の政府が 共謀的行動をとったことで、このような状況が生 じた。日本は人類に対するこの犯罪行為に加担し てはならない。

5.そして今は

 人間の権利の重要性は、それが人間にどのよう なインパクトをもつかということと比例してい る。文化的・倫理的価値に基づく権利の悪用は、 当事者の社会・経済的行動様式に大きな悪影響を 与える。私は1994年4月に宮城県鮎川を訪れたが、 その時、非常に深い嫌悪感に襲われた。すなわち、 なぜこのようないたってまともな人々が、国際社 会からひどい仕打ちを受けなければならないのだ ろうか。私が人間について理解しなかった何かが あったのだろうか。たしかにその通りだった。人々 から権利を剥奪することを正当化するような権利 の乱用があったのだろうか。では、それはどのよ うな権限によるのか。

 このように多くの問いが生じるが、なんら回答 は与えられない。しかし、ここから一つの結論を 導き出さなければならない。すなわち、人間の権 利の完会な尊重のために闘う必要があるというこ とだ。

6.誰が闘うのか

 現在の枠組の中で、国際的な野生生物保存問題 にかかわる人々が、あなたたちの伝統的および文 化的権利を尊重するような決定をすると期待して はならない。理性を失い、法を無視し、自らの指 導原理を忘れた国際社会がそれらの権利をあなた たちから奪いとったのである。

 一方で、ある環境団体の無節操な行動は、規制 や管理が及ばない状況をつくりだした。これは人 間の行動の他の分野では前例を見ない。他方、日 本は、あまりにも長い間、米国が率いる国際社会 の不合理な要求に引きずり回されて来た。日本は、 さらに多くの研究と詳細な情報の提供、多くの努 力を強いられたが、その結果として国民の権利が ますます多く奪われただけである。

 権利を剥奪された人々と脅威を受けているが未 だ権利を奪われるまでに至っていない人々は、そ の力を結集し、エネルギーを一本化しなければな らない。自分たちの基本的権利を守るようそれぞ れの政府に強力な圧力を加えるべきである。自ら の生存、伝統の保持、生活の維持のために闘わな ければならない。ある政府が国民こそ最大の富で あることを確信すれば、かならずや自然との関係 における人間の尊厳と権利の回復に尽力するであ ろう。




米国の「捕鯨政策」過去、現在、未来

スチーブン・S・ボイントン

ヘンケ・アンド・アソシエーツ社
副社長/法律顧問

 米国では植民地時代から、再生可能な野生生物 と海産資源の消費は、社会の商業的、文化的、生 存上の利害に大きな影響を及ぼしてきた。今日の 米国で、魚類、家禽類、野生動物の肉は4千万人 を超える狩猟者、罠猟者、漁民、土着民にとって 必需品となっている。

 数多くの法律、規則、国際協定を通じて、数々 の資源保護法が作られてきたが、これらの法律は 、再生可能な野生動物や海洋資源を消費的に利用 することが、資源を管理する上で重要であるとす る科学的原則に基づいている。米国は、魚類・野 生生物資源に関する多くの二国間および多国間協 定に加わっている。これらの協定のほとんどすべ てにおいて、最大持続生産量の変動に見合った形 での、管理枠内でのある程度の消費的利用が認め られている。

 そのような協定の中でもっとも重要なものの一 つは、128ヶ国が加盟する「動植物の絶滅のおそれ のある種の国際取引に関する条約」(ClTES− 通常ワシントン条約と呼ばれる)である。商業的 利用には規制が必要だが、野生生物によってその 利用に耐える度合いが異なることを考慮した上 で、ClTESは暗黙のうちに野生生物の消費的利 用を認めている。

 これらの協定に見られる共通点は、科学的管理 が必要であるとの認識、さらにこれらの資源を人 類が食用などの目的で消費できるという概念であ る。

 1946年に国際捕鯨取締条約が締結され、米国は 締約国となった。同条約の目的は、「鯨類資源の適 性な保存をはかり、捕鯨産業の秩序ある発展を可 能にすること」である。米国が提出した条約草案 では、「捕鯨業の秩序ある保存と発展」が求められ ている。

 一般的に見て、米国が締約国になっているほと んどの国際協定では管轄権の下にある種または国 内に輸入された製品について直接的な利害が存在 する。米国の捕鯨の「最盛期」は1835年から1865 年であった。しかし、その後も1970年代まで、米 国の捕鯨はペットの餌の供給という形である程度 存続した。とはいえ、捕鯨そのものは米国では長 年にわたり、なんら支持基盤をもたなかった。

 米国はlWCで積極的にリーダーシップを発揮 してきた。鯨製品の消費的利用が認められるなか で、利用と保存の間の均衡を作り上げることが、 当初の米国のlWCへの参加の目的の一つであっ た。しかし、その立場は1970年代に著しく変わった。

 あらゆる消費的利用に反対する環境保護グルー プは、米国の資源保存に関する政策の策定の過程 で、科学的管理を感情と置き換えようとした。行 政および立法政策に影響を及ぼす多くの努力が行 われた。しかし、野生生物の利用は資源保存およ びスポーツ・ハンティング・グループの強い支持 を得ていたため、環境保護グループが自分たちの 非消費的利用の哲学を浸透させることができなか った。しかし、捕鯨に関しては、消費的利用を認 める政策に影響を及ぽす直接の支持基盤がなかっ たため、環境保護グループの立場に迎合する政策 が、何ら反対されることなく、つい最近まで受け 入れられてきた。

 1972年に、議会は海産哺乳動物保護法(MMP A)を採択した。同法の下で、免除証明が発行さ れないかぎり、海産哺乳動物製品の捕獲および輸 入にモラトリアムが適用される。環境保護グルー プは、「商業捕鯨の再開に対する全会一致の反対決 議」の議会での採択に成功した。(しかし、同決議 はなんら法律上の効力をもたず、実際には、重要 事項になんら有意義な影響を与えていない。)

 議会はまた「漁業者保護法へのぺリー修正法」 を修正し、一定の野生生物に関するガイドライン に違反する行動をとった国からの水産品以外の製 品の輸入禁止を含めるまで拡大した。ぺリー修正 法は、海産捕乳動物保護法の権限を支持している。 ぺリー修正法の下で、商務長官は、外国の国民が 国際的な野生生物保存計画の効果を減殺するよう な操業を行った場合はいつでも、大統領に対しそ の旨証明を行う権限を与えられている。大統領は、 当該禁止措置が貿易・関税一般協定(GATT)で 認められる範囲において違反国からの輸入を禁止 することができる。1980年に環境保護グループの 激しいロビー攻勢の末、米国は商業捕鯨モラトリ アム提案をlWCに提出したがそれは失敗に終わ った。しかし、1982年会議で、lWC締約国は1986 年までのフェーズ・アウト期間中に、商業捕鯨を 全面的に停止するという提案を採択した。しかし、 同提案は、1990年までに資源の再評価により持続 的捕獲の可能性が示されれば、捕鯨再開の可能性 を認める「早期の見直し」を条件にしていた。

 条約で認められているとおり、4ヶ国の締約国 −日本、ノルウェー、ペルー、旧ソ連−はモ ラトリアムに対する異議申立を、条約で定められ た期限内に行った。日本は後に異議申立てを撤回 した。

 1990年代の一連のlWC年次会議では、受け入 れ可能な管理方式の策定または主要な鯨類の資源 状態の見直しに努力が傾注された。しかし、現在 までなんら実質的結論は得られていない。その結 果、1992年会議で、ノルウェーは、1993年から、 わずかな頭数のミンククジラの捕獲を開始すると 発表した。ノルウェーは異議申立をしているため、 法律的には捕獲が可能である。これに対して、米 国他16ケ国は、「ノルウェーの立場に懸念と遺憾 の意を表明する」共同声明を発表した。

 非常に重要な点として、科学委員会は1993年会 議で、改訂管理方式(RMP)ならびに絶滅のお それがないミンククジラの限定的捕獲は資源に悪 影響を与えることなく実施できるとの見解を発表 した。しかし、科学委員会の全会一致の勧告にも かかわらず、米国などlWC内の多数派はこの勧 告を拒否した。1993年5月のノルウェーへの覚え 書きで、米国は以下の声明を行った。

 「現在、米国議会およびアメリカの一般市民は、 商業捕鯨を支持していない。したがって、米国は、 商業捕鯨再開を支持しないことを決定した。」  その後、環境保護ロビーは、精力的に米国がノ ルウェーに貿易制裁を発動するよう求めた。この 努力のために、環境保護グループが百万ドル以上 の金額を費やしたと推定される。

 「米国議会と一般世論が限定的商業捕鯨に反対 している」という前提にはこれまでまったく異議 が唱えられなかったが、1993年7月に、始めて、 この前提に反対する共同行動が取られた。上院・ 下院の議会スポーツマン会議(Congressional  Sportsmen's Caucus)の幹部が、「世論であるとの認 識、またはこの場合、議会の見解であるとの想定 に基づく政策」について質す書簡(1993年7月12 日付)を商務長官に送った。同書簡は以下のとお り訴えている。

 「野生生物の採捕に関するモラトリアムが科学 的に正当化されれば、それは厳格に実施されるべ きである。しかしながら、その同じ基準によって、 限定的かつ管理された捕鯨が支持されるときは、 その結果を支持すべきである。捕獲を行う決定を している国は、貿易制裁のおそれ、批判または貿 易制裁を受けることなく行動することを許される べきである。」

 それに対して商務長官は以下の通り回答した。

 「文化的伝統などの(科学以外の)その他の要 因もまた重要である。科学は、ある活動が資源を 害することなく進められるかどうかを教えるだけ である。科学は当該活動を進めるべきかどうかに ついてはなんら情報を提供しない。」

 それにこたえて、同会議は米国には消費的利用 を含む野生生物と海産資源利用を支持する長い伝 統があると指摘した。

 「科学的原則に基づく、限定された海産資源の 捕獲が、捕獲の決定を基づかせる適切な基準とし て国際的に認められている。米国は、国内的にも 国際的にもそれらの再生可能な資源の消費的利用 の政策をとってきた。この歴史的に正しい立場か ら外れることは、世界の他の国に最も不適当なメ ッセージを送ることになる。」

 つまりここで初めて、議会メンバーが海産資源 の科学的管理の例を根拠に、捕鯨に関する保護主 義的立場を問題として取り上げたことになる。 1993年8月5日に商務長官は、大統領に対ノル ウェー貿易制裁の実施を勧告したが、大統領は制 裁を発動しなかった。

 1994年のlWC会議で、米国は、科学に基づく 管理を受動的に認める言葉でカムフラージュしな がら、明らかに保護的な線に固執する反捕鯨の立 場を固持し続けた。しかし、同会議では改訂管理 方式を推進する決議が採択された。

 この時点で、米国の政策を料学に基づく管理に 引き戻すための積極的な行動が見られた。第一に、 1994年に議会は、1992年と1993年のように、限定 的商業捕鯨再開に反対する決議を採択しなかっ た。また大きな草の根団体により、限定的商業捕 鯨の再開への組織的支持が見られた。さらに1994 年lWC会議には、消費的利用を支持する非政府 団体(NGO)が多く参加した。これは各国代表 団、持に米国代表団にとって無視できない事実だ った。

 本項執筆時に、米国は、北東大西洋あよび北大 西洋中部ミンククジラ系群の附属書T(絶滅の状 態にある)から附属書Uへの降格を求めるノルウ ェーのCITES附属書修正案に反対する動きを示 した。現在、草の根団体、協会、また数名の議員 が、精力的に、米国の捕鯨政策に反対する運動を 展開している。ここから、科学に基づく管理の実 現に向けて、目覚ましい形で支持基盤ができつつ あると言える。

 要するに、限定的商業捕鯨を阻止しようとする 現在の米国の立場に真剣に反対する積極的動き が、米国の世論と議会内に存在する。そこで主張 されている立場は、国内法と国際協定に伝統的に 見出される健全な管理原則に基づくものである。 米国は、保護主義的哲学を固持することで、野生 生物と海産資源問題に関する国際的政策の策定で 後ろ向きの一歩を踏み出してはならない。時間が かかるとはいえ、変化は起こり得るものだし、ま た起こるべきである。そして実際にあこるだろう。




西欧人の反捕鯨感情

メアリー・キング

ジャーナリスト

 スーダンで会ったデニスという名のウガンダの学生が、もしウガンダに行くことがあれば、 首都カンパラの某レストランに行くよう勧めてくれた。しかし、そこで出される肉が何の肉かは聞かないほうがいいという。 時には人肉が出るという噂もあるそうだ。

 そのとき、デニスが私をからかっているのか半信半疑であった。

 数ヶ月後に私はカンパラを訪ねた。デニスの話は食欲よりは私の好奇心をそそった。私は冒険心を起こし、 そのレストランを探した。それはちょうどデニスが言ったとおり、町の中心からそれほど離れていない薄汚い裏通りにあった。 メニューがなく、またウェーターがスワヒリ語しか話さなかったため、私は手振りで、何か飲み物と食べ物が欲しいと伝えた。 そのうち、パプ(アフリカの主食であるトウモロコシを粥状にしたもの、ほとんど味がなく腹に溜まる)とともに、肉の皿が運ばれてきた。 それは見た目には何ら特別なところはなかったが、肉は汁気が多く、驚くほど美味だった。それは牛肉でも、豚肉でも、羊でも、鶏でもなかった。 一体何の肉だろう。私は好奇心に駆られ、その正体を知りたいと思った。

 私は身振り手振りで、質問をウェーターに伝えようとした。ダチョウから始まり、象、ワニと身振りで示すのを、ウェーターは何のことかと見ていたが、 ついに、私が何を知りたがっているか悟り、やや遠慮がちに私の手をとり、台所を通り抜けて、小さな庭に私を連れていった。

 そこには様々の檻が置いてあり、鉄格子の向こうにサルがひしめいていた。何匹かは好奇の目で私を見、また別のサルは互いにふざけあっていた。 好奇心が強く、茶目っ気たっぷりで、まるで人間の子供のようだと思った。そのとたん、私はここで食事をしたことを後悔した。 どうしてこんなにかわいいサルを食べることができたのだろうか。 私はまるで誰かの赤ん坊を食べてしまったかのように感じた。

 数年後、私の人生におけるその事件を振り返り、私の感情がある種の気紛れに動かされているのに気づいた。よく知られている英国人の動物愛護の感情である。 結局のところ、私は、人間の子供を助けることより、苦しんでいる動物を助けることの方が当り前と思われる民族の一人である。 英国では孤児院や老人、病人のための施設よりも、犬、猫の施設のために自分の遺産を残す人が多い。

 私はいま、絶滅のおそれがない限り、サル、ネコ、イヌなどを含め、家畜や野生を問わず、どんな動物を食べることにもなんら良心のとがめを感じない。 なぜ、ウシを食べることよりもネコを食べることが、またブタを食べるよりもウマを食べることが大きな悪なのだろうか。もしヒンズー教徒が世界を支配していれば、 私はローストビーフや∃一クシャ・プディングを楽しんで食べることはできまい。この伝統的な日曜日の昼食の献立を禁じられたら、英国人は激怒することだろう。 またイスラム教徒が世界を支配したら、英国、オーストラリア、カナダ、米国などで標準的な朝食メニューになっているハム・エッグに別れを告げなければならなくなるだろう。

 私は西欧人が、インドやアラブ世界の食生活に関する法律を守るよう、強制される状況を想像できない。また、馬を溺愛している英国人がフランス人に対して馬肉の食用利用を止めるよう圧力をかける状況も想像できない。 では何故日本と日本人が捕鯨とクジラ食を理由にいじめにあうのか。

 私は、それがロマンチシズムと人種差別の混じりあった感情であると思う。しばしば政府におもねる西欧のマスコミは我々に、日本人が冷酷にクジラを絶滅に追い込んでいると信じ込ませようとしている。 確かに、絶滅のおそれのある鯨種はある。しかし、これらは刺身の材料になるような種ではない。日本の捕鯨者が捕獲しようとしているのは、 資源量の豊富な南氷洋ミンククジラだけである。日本人が、鯨を大事な食糧源としてみなしているならば、それを絶滅の脅威にさらすことはまったく不合理であると言える。

 西欧人は、自分たちが尋常でないと考える食べ物(クジラ、たこ、イカなど)を食用とする習慣について文化的な判断を下しがちである。 マクドナルド・ハンバーガーやピザ・ハットなどがおいしい食べ物の代名詞であると考える人たちの無知な発言や馬鹿げた冗談がよく聞かれる。 クジラは、何度も食べてみて、掛け値なくおいしい食べ物であると思う。

 東京に行きつけのクジラ料理店がある。しかし、私が鯨肉を食べると言うと、ほとんどの西欧人は判を押したように苛立ちを示し、私に「正しい」政治的立場を押し付けようとする。 しかし、私から見れば、彼らは、鯨をロマンチックに理想化した宣伝と嘘の中に迷い込んでいるだけである。

 クジラは子猫のように抱きしめたくなるような可愛さはないが、西欧人にとっては海に棲む巨大な神秘的生き物で、その大きさだけでも見るものを圧倒する。 クジラは恐竜時代から地球上に生息している原始的な生き物である。聖書でヨナとクジラの話が取り上げられ、また白鯨やピノキオの物語にインスピレーションを与えてきた。

 私はクジラのユニークさ、美しさ、またクジラが生存する権利を否定しているわけではない。しかし、同時に私は日本人が、エビを食べるのと同じく、クジラを食べる権利をもつと考える。 その一方、私は西欧諸国が自分の顔を鏡に近づけ、嫉妬のために青白くなったその顔を見つめる必要があると考える。私は西欧諸国の反捕鯨の立場が環境保護の関心に立っているとは思わない。 西欧は日本の経済的、社会的、文化的成功に嫉妬を感じているのである。西欧は嫉妬心のために不安になり、急速に追いついてきた国に追い抜かれるのではないかとの脅迫観念をもっている。 西欧諸国は白人の優位を守りたいと望んでいるが、世界に対する統率カが弱まっているのを感じている。したがって、日本を嫌悪の対象にしようとしているのだ。

 マスコミでは、アイスランドのクジラ利用が攻撃の対象となることはあまりない。それはアイスランドが遠隔の北欧の小国で、白人系国家であり、 西欧の大国に対しなんら脅威となっていないからである。その反面、日本は、白人の優位を覆しかねない国々の先頭に立っている。

 私は日本人が世界でもっとも洗練された食文化をもつ国であると考える。優れた日本料理を食べること自体、芸術の境地に入り込むことである。 それぞれの料理が、日本の美術の伝統の粋であるデリケートかつ官能的な絶妙の美学によって呈示される。クジラは、寿司、刺身、歌舞伎、狂言、三味線、尺八などとともに、 日本文化の内なる部分である。日本文化はあまりにも豊かで奥深いため、写くの西欧諸国はおそれさえ感じている。

 クジラは西欧諸国が日本のイメージを悪くするために使える武器にすぎない。私は日本人がそのような基本的権利について卑屈に譲歩することがないことを希望している。


(メアリー・キング−−英国人ジャーナリスト。英国でジャーナリズムを学び、ロンドン、中東、日本で活動。現在世界各国を取材旅行中)




事実vs.感傷

デニス・テーフ

海洋生物学者/科学ジャーナリスト

 オーストラリアの水産生物学者として、私は、効果的な海洋生物資源の管理に興味を抱いている。私は、今までに数多くの海洋生物種についての意見を発表してきた。そのような立場から、私は、枯渇した種の保護と海洋環境とのバランスに関心を持っている。正直のところ、初めは、私も感情的な議論に心をゆさぶられたことがあった。しかし、永い間に私の意見は当初の感傷的な見地から事実に基づく意見へと変わってきた。

 過去二十年間、私はNGOや政府自身による非常に感情的な論旨を聞いてきた。彼等はこのような論旨を駆使して、さまざまな生物種についての世論を動かそうと試みている。感傷的な論陣が成功するのは、特に事実に基づく情報が少ない場合である。このような場合に、相手の国は何であれ、人種的偏見とか、文化の違い、また未知なものへの怖れという要素が加われば、感情論にとっては、おあつらえ向きの舞台ができ上がる。

 前述のように、私でさえも、こういう感情論には弱かった。1970年代の半ばに、シドニーで私は国立科学産業研究所(CSIRO)の水産部に所属していたが、その頃丁度私の上司でもあった、K.ラドウエー・アレン博士が議長で私たちの所内でIWCの、ある会議が開かれることになった。会議が開かれる前に、研究所の門前にグリーンピースの一群が集まり、「鯨を救おう」と書かれたのぼりを掲げ、口々に「鯨を救おう」と叫んでいた。その時私は、彼等の熱意に動かされ、彼等を支持したい気持ちに駆られた。鯨が地球上から消えることを喜ぶものはいないからである。しかし、彼等の代表と会って討論すると、彼等の論旨が、いい加減であるということが判った。先ず、彼等の論旨の基本には、鯨は全て同じであるという信念があった。実際彼等の中に、鯨にも色々な大きさの色々な種があることを知っているものは少なかった。

 巨大な鯨種であるシロナガスは確かに枯渇しており、保護を必要としていた。しかし、その一方比較的小型のミンク鯨などは、豊富なばかりでなく、増加している傾向があり、その理由の一つは、恐らくシロナガスのような大型鯨種が枯渇したからである。ミンクもシロナガスも同じ餌を競合して食べているのである。このように、どんな鯨種も同じ生き物であると考えることは、余りにも単純な考え方である。類推的にいえば、同じ大型の哺乳類で陸に棲むマウンテンゴリラは枯渇しており、彼等を保存することは、人類にとっても重要であるのに、マウンテンゴリラの保護を訴えるものは殆どいない。むしろ、人間が彼等の生息を脅かしている程である。私がルワンダの山岳地方を訪れた時、巨大なシルバーバックゴリラに遭遇した。私は連れの国立公園のレインジャーに「銃があって良かったね」と言ったが、レインジャーの答えは、「銃は私たちを守るのではなくて、ゴリラを密猟者から守る為に持っているのです」というものであった。

 グリーンピースがしばしば使う論旨に、「鯨は大きく崇高な生物であるから救わなくてはならない」というものがある。確かにそうであろう。種の保存を考慮せずに捕獲するのは無責任である。捕獲は、その種の福祉を考えてから行うべきである。しかし、鯨の健康というものは、自然の法によって支配されているということも考えなくてはならない。肉食性の種は、索餌習性により、先ず不健康なものを間引きし、次に老いたものと負傷したものを取り除く。我々人間は、雑食性であり、我々の消化器官は栄養素であれば植物性も動物性のものも消化できるように造られている。このような食性を考えると、人間は動物が死ぬのを待ってから食べるというのは、我々自身の種の生存にとって不健康である。だから、我々は植物であれ、動物であれ、生きた栄養素を新鮮な状態で取り入れる。だからといって、私は生物を無駄に殺生せよというのではない。我々人間は地球の上で、他の生物資源のバランスをチェックしながら、管理出来るという特権を有する生物なのである。だからこそ、人間は他の種の生存に劇的な影響力をもっているのである。

 ある人々は鯨は高度に知能が高く人間のようなコミュニケーションの機能があるから殺してはいけない、という。この論旨は、一見説得力があるように見えるが、事実より感情に基づくものである。鯨は知能が高いとしても、陸上動物でいえば、犬、豚、チンパンジー以上のものではない。コミュニケーションの機能から言えば、蜜蜂などは高度に洗練されたコミュニケーション機能を有している。我々が食物として依存する牛、豚、山羊、鹿、兎、カモシカ、などは比較的知能が高い動物である。特に豚は、人間と霊長猿との中間に位置する知能があると信じられている。

 では、野性資源の枯渇を防ぐ為に、我々は野性の動物資源を食べずに、家畜のみを食べるべきであろうか?この質問に答えるには、我々は文化の相違という問題に立ち入る必要がある。ある文化が慣れ親しんできた食物を他の全ての文化に強要すべきなのであろうか?

 オーストラリア、ニュージーランド、米国、カナダ、その他のヨーロッパ諸国は食肉を大量に摂取し、家畜の牛、豚、鶏などに依存してきたが、日本やスカンジナビア諸国は、海産資源に依存してきた。どちらの場合であっても、人間が資源に対して人道的な処置をとり、種の保存を脅かす行為をしないならば、問題とはならない。

 反捕鯨の人々は、「私達は鯨肉を食べない、だから貴方達も食べなくてよい」という議論をする。このような議論は文化の違いを完全に無視している。動物性食品でヒトの消化器官にのみ対応しているものはない。このような議論をするならば、ヒンズー教徒がアメリカ人やオーストラリア人に「私達は、牛を食べない、だから貴方達も食べるのをやめなさい」というかもしれない。

 オーストラリアでは、我々は、食生活で牛肉や羊肉に大きく依存している。我々は日常これらの動物の内蔵である舌、脳味噌、腎臓、肝臓、胃腸壁や血液を凝固したブラック・プディングなどを食べる。他の文化圏の人々にとって、こういう食物は、考えただけで、ぞーっとするのではなかろうか。オーストラリアのアボリジン(先住民)は、カンガルー、蛇、ゴアナ(とかげ)、山芋、地虫、などを伝統食として食べている。昔、移住してきたヨーロッパ系のオーストラリア人はこれらの食物を気味悪がっていたが、今では、高級レストランで、地虫の料理をメニューにいれている所さえある。人間というものは、文化に慣れ親しむにつれ、より寛大になるのである。

 最近では、日本人がより多くの肉を食べるようになってきたのと同じく、オーストラリア人がより多くの海産物を食べるようになった。特に海老、蟹、ロブスター、イカなどを食べるようになった。私が東アフリカで研究している頃、タンザニアでは、現地の人々は肉を沢山食べる経済的余裕はないが、それでも蟹は食べないという事を知った。蟹は蜘蛛に似ているので、彼等にとっては食べられないからである。また海老も同様な理由から現地の人は食べないので、私は漁業調査航海中、大いに海老と蟹を食べることが出来た。しかし、現地で珍重されているイナゴの内臓は食べる気にならなかった。動物性の食品には、どんなものでもある程度の栄養素がある。であれば、ヒトが何を食するのかは問題ではなくて、食品となる資源の種が持続できるか否かが問題なのである。

 最近オーストラリアで制作された「ベーブ」という映画がアメリカやニュージーランドでも人気を拍しているが、これは、子隊が逃げる物語である。人間の声で吹き替えられて、あたかも子豚がしゃべっている様に制作されているが、折しもこの三ヶ国での豚肉の消費が減少しているというのは、単なる偶然とは思えない。英国では狂牛病の発生とともに、食生活に変化が見られている。狂牛病の原因が牛の餌となった感染性の穀物にあるからである。

 畜産には、危険が伴う。家畜は集団で飼育されるので、感染性の要因が発生すれば直ちに伝染の危険がある。その上、脂肪を減らし、肉を柔らかくし、生産を上げる為にホルモンの投与を行う方式が開発されたので、この結果人間と家畜の健康を害するような副作用がないように常時モニターを続けなくてはならない。これに比較すると海産物は、汚染されていない海水の中で生産される。従って、食物連鎖の中で感染する可能性が低い。

 世界的に我々が将来直面する二大間題は、環境と過剰な人□増加である。後者の問題には、食糧管理問題が伴ってくる。地球の表面積の70%が海洋であることを考えれば、そこから生産される食糧資源を無視することは出来ない。しかし、我々はこの資源の管理を誤ってはならない。過去の経験では、漁業も捕鯨もともに、誤った管理の歴史があることは疑いなき事実である。アメリカとオーストラリアを含む過去の捕鯨大国は持続的な資源管理について失敗している。その結果、シロナガス鯨のような大型鯨類が絶滅の危機に瀕している。最新のシロナガスの資源量は200から1,100であるとされている。(長崎、1989)もしもシロナガスの資源がこのレンジの低い方にあるとしたら、この鯨類資源の回復を、ただ手をこまねいて待つというのでは十分ではない。資源は、さわらずに置けば自然に回復するものであるという考え方では、枯渇した資源を救うことにはならない。 海洋資源についての我々の経験から、ある種が増殖するには、他の種が占有していたニッチェが空いたので、そこを取り込むという現象がある。シロナガスが回復しないのは、同じ種を索餌している他の競合相手の生物が増加しているので、シロナガスが比較的因難であるということは大いにあり得る。どの種とどの種がこのような競合関係にあり、その中でどの種が全体のバランスを崩すような増加をしているのであるかを確かめる共同努力が必要である。シロナガス種が保存される為には、どのような処置が必要であるのかを確かめる必要がある。処置には他の二三の種の間引きも必要であるかも知れない。また、シロナガスが生息している海域でのオキアミの直接的捕獲は避ける必要があるのかも知れない。もしも、ある種の間引きが必要であると判断された場合に、間引きを野放しにしてはならない。そうすれば、また、生態系の混乱をさらに深刻化するであろう。間引きによって、種が有効利用され得るのであれば、ガイドラインを決め、それを守り、独立した科学者のチームがそれが守られているかをモニターして間引きされなくてはならない。

 オーストラリアでは、カンガルーの中のある種は絶滅に瀕しているが、一方増加して、他の生物種に脅威を与えているものもある。科学調査の結果、ある種のカンガルーは羊と競合し、羊の索餌域での餌を限界を越えるまでに食べつくしている。養羊業者は、毎年ある種のカンガルーを射殺する許可を得ている。カンガルーの種でも枯渇ているものがあり、必要以上に豊富な種を間引きすることは、枯渇した種にとっても羊にとっても恩恵を与える。羊は飼育の地域の柵を飛び越えて外の地域で餌を食べることは出来ないからである。間引きされたカンガルーは今では、都市のレストランなどで、人間の食用に供され、健康的なグルメ食品となっている。クインズランド大学の動物学部のゴードン・グリッグ教授は、草牧地の利用ではカンガルーの方が羊より効率が高いと言っている。彼は牧草が良く育たない地域では、羊よりもカンガルーを食用に飼育する方が理にかなっていると提案している。この提案には、やはり情緒的な反対者が出ている。カンガル−は美しいし、毛皮も素敵な哺乳類だというのが理由である。しかし、情緒による論は、事実と現実によって、矯正されなければならない。 現実は、「どんな種であっても、い可愛く、美しく、毛皮が素敵であろうと、鱗があろうと、もしも劇的に増加した場合には、同じ棲息域内で競合する他の生物の餌と場所を奪うのである。」

 過酷であるが、自然の法則は、より強靭な生物が生き延びることを可能としている。その結果、ある種の生物が絶滅していくこともある。この現実は地球上の管理者としての人間にとってのジレンマである。「もしも、自然のバランスが人間の活動によって崩されたのであれば、それを矯正するのも人間の責任ではないのか?」




鯨類資源の合理的利用を目指して

大隅清治

(財)日本鯨類研究所理事長

 関係の皆様の暖かいご支持を得て、昨年12月1日に当研究所の理事長に就いた翌日から1週間、京都で開催された「食料安全保障のための漁業の持続的貢献に関する国際会議」とその関連会議に、NGOの一員として参加した。

 この会議には95カ国、11の国際政府機関、9つの国際NGOから、合計522人が参加し、lWCとは全く異なった雰囲気で会議が進行し、歴史的な「京都宣言」と「行動計画」を採択して、会議は成功裡に終了した。就任の直後でもあり、この会議への参加は私にとって特に印象深かった。

 「宣言」と「行動計画」は捕鯨とは直接関係しないものの、その精神は近い将来に必ずや再開されるであろう捕鯨のあるべき姿に指針を与えると高く評価され、lWCは世界の一部の偏った考えを示す場に過ぎないことを実感した。

 れれわれは鯨類を、大きな生産力を有する海洋に存在する、再生産可能な生物資源の一部と見なしており、その合理的な利用は許されるべきであると考える。そして、捕鯨は世界の食料安全保障のために、持続的な貢献をなし得ると信じる。

 「行動計画」に示されるように、海洋の生態系の構成員を一括して、有効に利用し、適切に管理し、安全に保存することが大切であり、鯨類だけがその例外とはなり得ないはずである。当研究所は鯨類資源の調査・研究を推進することによって、鯨類の利用・管理・保護のための科学的基盤強化の一翼を担っていると自負しており、その責任は非常に重いと自覚している。

 理事長就任の際の所員への挨拶の中で私は、“官界、業界、学会、そして世界から頼りにされる研究所となること”をモットーにして、所員がそれぞれの職場で努力し、成果を挙げるよう要請した。皆様の当研究所への一層のご理解とご支持を、また私へのご指導とご鞭撻を、強く要望いたします。





世界の新聞記事より


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