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第一部 捕鯨は死なず〜商業捕鯨撤退までの経緯T |
はじめに |
IWC:国際捕鯨委員会 |
三人委員会 |
近代捕鯨以前 |
BWU:シロナガスクジラ単位 |
持続的利用へ〜ミンククジラ操業の開始〜 |
乱獲の時代 |
オリンピック方式 |
国連人間環境会議 |
捕獲規制のはじまり |
捕獲枠削減の動き |
第二部 モラトリアム〜商業捕鯨撤退までの経緯U |
戦後捕鯨再開とIWCの発足 |
国別割り当て方式 |
参考資料:主要鯨種解説 捕鯨年表 |
1982年(昭和57年)、イギリスのブライトンで開かれたIWC・国際捕鯨委員会の年次総会に於いて、南氷洋捕鯨の1985年漁期からの5年間全面禁止及び、日本沿岸のミンククジラ、ニタリクジラ、マッコウクジラの1986年からの5年間捕獲禁止が決議された。
いわゆる「1986年からの商業捕鯨のモラトリアム(一時停止)」であるが、この後、現在に至るまでこのモラトリアムは解除されず、日本の大型鯨の商業捕鯨は全面禁止の状態にあります。 この間、いわゆる「捕鯨論争」がさまざまな立場からされているのを耳にした方も多いでしょう。一部の急進的な環境保護団体によるキャンペーンや、欧米先進各国の政治的、民族主義的アジテーション、また、それらに歩調をあわせる国内”文化人”たちのアピールによって、一般に漁業問題や環境保護問題に関心の薄かった人々にも、決して理論や数字で証明されることのない「ある種のイメージ」が浸透しつつあるようです。
曰く、
「クジラは絶滅の危機に瀕している。」
「国際社会のなかで日本人が嫌われ者になってまで捕鯨を継続するメリットがない。」
「クジラなど、日頃、食べていないから今後も必要ない。牛や豚で十分ではないのか。」
さらに
「クジラたちは、かしこく、心の優しい、清らかで聖なる動物である。汚れきった現代社会に生きる我々日本人がこれを殺して食べるなどもってのほかである。」
伝々。
最後のせりふは笑い話ではなく、アメリカ等、反捕鯨をかかげる諸外国政府やそれらの反日ロビイスト、急進的・似非環境保護団体の運営者たちが、さまざまなある理由から「自国民の国民感情」をあおるときの方向付けともなっている、無視できない力の源でもあるのです。過去の長い捕鯨の歴史のなかで、その資源量が回復困難と思われるまでに乱獲されたいくつかの種のクジラはありました。普遍的な産業活動の多くがそうであるように、利益優先で、大局的な視点が無視された時代もありました。 しかし、誤った誘導情報と、未来を拓く人類の英知・「科学」を無視(または否定)した行き過ぎた「環境保護熱」によって、長い歴史を持つ、一つの文化、一つの産業が葬り去られようとしている今、「この問題、本当に正しいのはなんだろうか?」「誰かに踊らされずに真実が知りたい。」 という方々に知ってもらうべき事実があります。
「現在、捕鯨の対象として求めているのはミンククジラで、このクジラは絶滅の危機はおろか、有史以前の水準をも圧倒的に上回るほどに大増加中である。」
「様々な食料生産手段のなかで、捕鯨だけが世界的に反対運動の槍玉に挙がったのは背景に存在していた反捕鯨国の政治的思惑の為というのが通説となっている。」
「反捕鯨活動には理由があり、彼らは自分個人の利益やナショナリズム、優越感、心の安定を満足させるためのスケープゴートとして捕鯨を対象にしている可能性がある。」
「商業捕鯨の再開を悲願とする地域住民、生産者、文化の担い手が多く存在するが、その意見はあまり知られていない。」
さらに
「反戦、核兵器廃絶、南北問題、環境破壊問題など、人類等しく目を向けるべき世界の問題は山積みであるが、それら人類の敵とも言える問題に立ち向かうのはまさに闘争であり、漠然とした反捕鯨の立場のような『自分の心のヒーリング』を本質とした自愛的行為は、逆に人類にとっての大問題から目を背けさせ、問題の理論的、科学的解決を目指す姿勢から一個人を孤立させてしまいかねない。」
知るべきは真実であり、主張すべきは正義である。このサイトでは、まず、捕鯨の歴史からふりかえり、過去の乱獲の事実から、捕鯨という産業を維持するために正しく取り組まれようとしてきた規制の歴史、その後、主に政治的かけひきのために、現在、持続利用可能と判明しているクジラ資源とそれにかかわる産業、人々の努力と願いがいきなり抹殺されていった事実を紹介していきます。
第一部 捕鯨は死なず〜商業捕鯨撤退までの経緯T
第二部 モラトリアム 〜商業捕鯨撤退までの経緯U
第三部 対日包囲網 〜商業捕鯨撤退までの経緯V
第四部 サンクチュアリー 〜調査捕鯨の正義と苦闘第一部(このページ)では、捕鯨の歴史と試行錯誤を、
第二部・第三部では過去の反省から到達した科学的根拠に基づいた持続可能な捕鯨産業が、政治的思惑によって抹殺されていった様子を、日本の商業捕鯨(一時)撤退の経緯を通して確認していきます。
第四部では現在行われている調査捕鯨の成立と現状について、論説 正義の価値はでは、自愛的疑似エコロジーの発想にひそむ危険性についての紹介と考察をしていきたいと思います。
人と食料資源としてのクジラとの関わり合いは紀元前2000〜3000年前から始まったようである。10世紀頃にはバスク人により捕鯨が行われていたことが知られている。17世紀にはオランダ、ドイツ、イギリスなどで、この古式捕鯨は最盛期を迎える。日本でも1606年、現在の和歌山県太地町で始まり、1670年代からは網取り式といわれる独自のスタイルを完成させ、各地に普及していった。
18世紀にはアメリカ式捕鯨と呼ばれる初期の母船式操業が始まる。1853年のペリー来航、いわゆる黒船による開国要求も、捕鯨船団の補給基地の確保が第一目的であった。中浜万次郎(ジョン万次郎)の試みた捕鯨方式や、メルヴィルの「白鯨」の舞台も、このアメリカ式捕鯨である。これらアメリカの捕鯨は1848年からのゴールドラッシュ、続いて発見された西部の油田開発による労働力不足と鯨油価格の低下、乱獲によるセミクジラ、マッコウクジラ資源の減少によって衰退した。
遊泳速度が速く、捕獲作業中に海面に浮かないナガスクジラ科などの種類を捕獲するため、1864年には速力の早いエンジン付きの船に捕鯨砲を乗せて銛を撃つノルウェー式捕鯨が開発される。この頃ニシン漁業者による捕鯨反対運動などもあり(ニシンの群はクジラに追われて来遊すると考えられた)より沖合の漁場をもとめて母船(工船)を伴った近代捕鯨の方式が確立していった。産業革命以降、機械油として需要が増大していた鯨油は、石油資源の開発により価格が低下していたが、20世紀になるとコッホ、パスツールらによる細菌学の発達を背景に石鹸の需要が急増し、また、鯨油からマーガリンなどの食品を製造する技術が確立したため、急激に発展していった。
あらたな漁場をもとめて遠洋に進出した捕鯨船団は、ついにクジラ資源の宝庫、南氷洋に到達した。
1901年、 スウェーデンの南極探検隊の隊長、ノルウェー人のラーセンは南氷洋で無数のナガスクジラを発見。その情報に基づきノルウェーはサウスジョージア島に基地を置く大規模な基地式捕鯨を開始。しかし周辺のフォークランド諸島等を領有するイギリスとの利権問題から、陸上基地のいらない完全な母船式操業へと移行していった。
1923年にはスリップウェー(クジラを引き込むため、母船の船尾に設けられた滑り台式搬入口)が開発され、洋上の工場としての近代母船式捕鯨が確立した。1930〜1931年漁期には欧米各国で合計41船団が出漁、大型鯨を3万4212頭捕獲。初期資源量では全鯨種中最大であったシロナガスクジラは鯨油生産効率が最もよかったことから集中的に捕獲され、資源は激減していった。日本はまだ南氷洋へ出漁する以前であったが、欧米各国はクジラの肉は捨て、鯨油を採ることが目的であったのだ。
南氷洋以外の海域ではセミクジラ、ホッキョククジラなどがすでに絶滅寸前と思われるまでに激減していた。これは主にアメリカの捕鯨船をはじめとする過去の乱獲によるものである。
生産過剰となった鯨油価格の安定のため、1920年代から捕鯨規制のための国際会議が行われるようになった。1936年発効のジュネーブ条約はクジラ資源保護をうたった初の国際条約であった。これは戦前の国際連盟の枠組み内で調印されていたが、南氷洋捕鯨の新興国である日本、パナマ、ドイツ等が参加していなかったこともあり、1937年にはあらたな国際捕鯨協定であるロンドン協定が捕鯨9カ国によって署名された。(日本は批准せず。先進捕鯨国主導の捕獲規制に危機感を抱いたようである。)その後、修正が続けられ、戦後の国際捕鯨取締条約へと続く基礎となっていった。
第二次大戦は世界の捕鯨業に壊滅的打撃を与えた。戦前出漁した34隻の母船のうち27隻が沈没または損傷。年間60万トンを越えた鯨油生産高は3万トンにまで下がっていた。日本は7隻あった母船が全滅し、捕鯨船(キャッチャーボート)の大半も失っていた。この頃日本では深刻な食糧難が続き、これを救うためGHQの指導により1946年から南氷洋捕鯨を再開。タンカーを改造した急造の母船二隻(橋立丸、第一日新丸)と寄せ集めの捕鯨船により、飢えた国民の期待を担って出漁。1171頭のシロナガスクジラ及びナガスクジラを捕獲し、食糧難を救った。この2船団のみによる我が国の南氷洋捕鯨は1952年4月の平和条約締結まで続いた。
戦争による中断をはさんだ捕鯨再開であったが、シロナガスクジラをはじめとする資源量の回復は思わしくなく、戦前の乱獲の反省の上に立って今後の捕鯨業への安定した資源供給を確保するために、1946年12月、ワシントンで15ヶ国の署名による国際捕鯨取締条約が締結。この条約の目的は「鯨資源の保存と有効な利用、捕鯨産業の秩序ある発展を図る」ことであった。この目的を守るためにIWC:国際捕鯨委員会が発足。日本は当初、加盟が許されていなかったが、サンフランシスコ平和条約調印一年前の1951年4月から加盟国となった。
IWCは加盟国政府から選出された代表一名づつを委員とし、各国平等な一票を投じた多数決による議決がなされる。具体的な規制内容はその修正に四分の三の賛成票を必要とする付表に明記されている。議決にあたっては各捕鯨国間の調整のみならず反捕鯨国との間の対立(アメリカ、ドイツなどは戦後、南氷洋捕鯨から採算性の問題から撤退し、反捕鯨国に転向していた。)をも調整しなければならなかった。地理的関係から南氷洋のザトウクジラの取り分増加をもくろむオーストラリア、ニュージーランドや北大西洋のクジラに主に関心をはらうデンマーク、アイスランド、北太平洋のクジラの捕獲継続を要求する日本やソ連、そして捕鯨撤退後、いきなり反捕鯨国に転向してしまった国々など、各国の利害関係の調整は困難を極めた。
特に付表の修正に際して予想される混乱に対処するため、委員会の規則は緩やかで民主的な配慮がなされていた。捕鯨国が参加し易く、脱退に追い込まれにくい加盟条件(捕鯨規則第10条)や、付表の修正に対しての異議申し立て( 自国に不利となる修正が多数決で可決されても一定の手続きで異議申し立てを行えばこれを撤回しない限り拘束されない。また、この異議申し立てによってあらためて不利益を被る国は、さらに異議申し立てをする権利を有する。)などが定められていた。
これらのことは、後に委員会の正常な運営にとって足かせとなっていった。
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IWC年次総会は加盟国の一国をホスト国として開催。総会に先立ち、世界中から約100人の科学者を集めた科学委員会が開催され、各国の報告書や論文をもとに目視調査や捕獲調査によって資源状態を評価、資源管理を構築する。
総会は科学委員会の勧告を受けて、各国政府コミッショナーによって行われる。
規制の焦点である捕獲頭数制限について、南氷洋の母船式捕鯨のヒゲクジラ類捕獲総頭数をBWU(シロナガスクジラ単位)で16000頭と定めた。このシロナガス単位とは、鯨油の生産量を元にした換算法で、シロナガス1頭に対してナガス2頭、ザトウ2.5頭、イワシ6頭という換算値であった。また、規制にはセミクジラ、コククジラの捕獲禁止や、未成熟個体、子連れの母鯨の捕獲禁止、南氷洋ザトウの捕獲制限、操業区域指定や漁期の設定なども定められていた。これら規則の履行を守るため、後に国際監視員制度も発足した。
南氷洋での母船式ヒゲクジラ類捕獲総頭数:BWU16000頭を巡って戦後の捕鯨は、各国各船団の間での熾烈な競争となった。 ノルウェー、イギリスに続き、日本、ソ連、オランダ、パナマ、南アフリカなどの国々が限られた枠内で捕獲を競い合ったこの時代は、後にオリンピック捕鯨とも言われた。
漁獲効率向上のため、高性能な船と優秀な船員が望まれた。2万トンを超え洋上の大工場となった母船では製品の歩留まりと品質向上が研究され、高速・高性能の捕鯨船には音響鯨探機や画期的な技術であった平頭銛(日本で開発された先端が平面になった捕鯨銛。それまでの鋭い先端をもった銛に比べ命中率が向上し、跳弾を防ぎ水中のクジラを撃てる。)などの新装備が投入された。なかでも最高度に磨き抜かれた日本の捕鯨船員は芸術といわれる程の超人的な技術を誇り、伝説的な名人とあまたの逸話を残していった。
1951年のIWC年次総会(ケープタウン)に於いて南氷洋での母船式ヒゲクジラ類捕獲総頭数:BWU16000頭の削減に関する議題が提出された。この頃の鯨油の年間生産量は約36万トンであったが、(戦前の最盛期では年間約60万トン)このうち73パーセントがノルウェーとイギリス、10パーセントが日本、残りがパナマ、ソ連、オランダ、アルゼンチン等の生産であった。鯨肉を主製品とする日本に対して鯨油のみを目的とする世界の捕鯨産業のなかで、鯨油市場をリードするノルウェー、イギリスがIWCの主導権を握っていた。このころからヨーロッパでは植物油の増産により鯨油の国際価格が下がりはじめ、鯨油関連会社の経営は苦しくなっていった。
1953年、ロンドンでの年次総会に於いて捕獲総頭数はBWU15500頭に引き下げられることが決定された。翌年の会議では北大西洋のシロナガスとナガスがそれぞれ5年間の捕獲禁止となった。クジラの減少については懸念され続けていたが、各国の利害関係を越えた真に科学的な鯨類資源量調査が行われていない状態では捕獲規制の根拠もはっきりしないまま、経済的利害に沿って事態は推移した。
捕獲総頭数は徐々に引き下げられていった。各国、採算面で苦戦するなか、日本は鯨油だけでなく鯨肉をはじめクジラのほとんどの部分を利用する利点があるうえに捕獲技術で諸外国を圧倒し始めていた。また、ソ連は国策ゆえの採算にとらわれない利点があり、船団増強が進んでいた。1960年代に入りヨーロッパでは鯨油価格が暴落し、捕鯨の将来に見切りをつけ撤退する動きが出始めた。1958年IWCハーグ総会に於いてイギリスは捕鯨業界の経営不振打開のための船団数の制限および捕獲頭数の国別割り当てを提案。これを巡ってノルウェー、オランダ、それに日本がIWC脱退を通告する騒ぎがあったが、結局1962年、ロンドンで捕獲総枠の国別割り当てに関する「南氷洋捕鯨規制取り決め」が南氷洋出漁5ヶ国によって署名された。 さらに船団の増加について、現在、南氷洋捕鯨に従事している船団数が上限とされ、捕鯨国が捕獲頭数を増やしたい場合は条約加盟国から頭数枠付きの船団を購入するしかなくなった。これにより戦後17年間続いたオリンピック方式は終わりを告げた。
1960年の第12回IWC総会において、南氷洋捕鯨の適正化を目的として、南氷洋捕鯨に出漁していないアメリカとニュージーランド、FAO(国際食糧農業機関)の3人の科学者による委員会が設けられた。 (FAO代表のシドニー・ホルトは科学者としての実力、倫理的意識ともに皆無であると、後に酷評されることにもなる反捕鯨・御用学者であったのだが。)
IWCはこの委員会に捕獲頭数の適正化の検討を依頼、1963年の最終報告を受けて1963年漁期からの南氷洋のザトウクジラの捕獲禁止および1964年漁期からのシロナガスクジラの全面捕獲禁止を決定した。
1963年漁期の南氷洋鯨総捕獲頭数はBWU(シロナガス換算)1万頭まで削減された。 前年から始まった国別捕獲枠割り当て方式であったが、初年度の日本の割り当て枠は33%、捕獲枠付き母船の購入以外に道のない日本はノルウェーから1隻、イギリスから2隻の母船を購入、合計13%の捕獲枠を譲り受けた。 これにより1963年漁期の捕獲枠は日本46%、ノルウェー28%、ソ連20%、オランダ6%となり、イギリスは南氷洋から撤退した。
外国の捕獲枠付き母船の購入により割り当てを増やそうとしてきた日本であったが、南氷洋における総捕獲枠の減少により、捕獲総頭数は減り続けていった。 これを補うため、北太平洋の母船式捕鯨の強化や、南氷洋において鯨油目的の外国母船から鯨肉の洋上買い付けを行い、需要に対応してきた。 総枠はBWU換算で1963年/1万頭、1964年/8000頭、1965年/4500頭、1966年/3500頭、1967年/3200頭、1969年/2700頭、1971年/2300頭と減り続け、日本の南氷洋出漁船団数も最盛期の7船団から、5船団、3船団と減少していった。
IWCは1971年、鯨の持続的生産量を超える捕獲は行わないという方針を決め、1972年漁期からは南氷洋でのBWU換算での国別割り当て方式を廃止、鯨種別に総枠を決めた国別割り当て方式が実施された。
このころ南氷洋ではすでにシロナガスクジラ、ザトウクジラの捕獲は禁止されており、ナガスクジラ、イワシクジラ、マッコウクジラの3種類が捕鯨の対象であった。 IWCは、科学委員会が算出した捕獲許容数をもとに捕獲枠を決定したのであったが、これまでの流れからも、今後さらに捕獲枠が減少する(資源量が減少していなくても)ことを予想した日本はミンククジラ操業を開始することにした。 それまで、ミンククジラは小型で生産効率が悪いということで、世界の捕鯨界ではほとんど対象外であった。
鯨種別捕獲枠が設定されるまでに、捕鯨によってその資源量をかなり低いレベルまで減らしてしまった鯨種もあった。 1946年締結の国際捕鯨取締条約により資源管理が行われようとしてきたが、BWUは鯨種別管理が出来ず、シロナガスクジラは初期資源量の5%程まで減少し、1966年に全世界で捕獲禁止となっていた。(それでも、絶滅の恐れのある希少種というレベルではなく、1万頭を超える個体数ではあったのだが。)
鯨種別捕獲枠の決定により、捕鯨産業は科学的に管理され、持続的利用が可能な範囲で資源の有効利用を続けるという段階に到達した。 しかし、この頃、IWCの資源管理の論点とは違うところからの動きが見え始めていた。 捕獲規制(資源管理)ではなく、捕鯨禁止(禁止そのものが目的)の動きである。
資源量が圧倒的に豊富なミンククジラを有効利用しようとした日本であったが、技術上の問題点が存在していた。 ミンククジラはロス海など、南氷洋でも高緯度の氷縁付近に多く分布し、操業環境は過酷で、危険を多く伴うことが予想された。 また、小型で動きが速いため、射撃も困難であった。日本の捕鯨船員たちはこれらを克服し、1972年漁期からの操業は好成績を納めた。 この年からIWCは条約の順守と違反の処罰徹底のために国際監視員制度を実施。捕鯨母船には最低2人の監督官が乗船、基地捕鯨、解体処理場にも監視員をおくことが各国に義務づけられた。
ミンククジラに活路を見いだそうとした日本とは対照的に、ノルウェーは採算上の理由からこの年を最後に南氷洋から撤退した。 イギリス、オランダに次ぐノルウェーの撤退により、南氷洋出漁国は日本とソ連のみとなった。もしも、IWCが科学委員会の勧告に従って捕獲枠を決定し、採算性に見合う数の船団が出漁するという、健全な状態が維持されたのなら日本の商業捕鯨は漁業の一形態として、食料生産手段の一つとして、今も続いていたであろう。
IWCは世界中から約100人の科学者を集めた科学委員会を開催し、各国の報告書や論文をもとに目視調査や捕獲調査によって資源状態を評価、資源管理を構築する。 総会は科学委員会の勧告を受けて各国政府コミッショナーによって行われる。鯨種別捕獲頭数規制の導入と、規制を順守させるための国際監視員制度の実施により、捕鯨は持続的利用可能な水産資源として、科学的に管理された最も進んだ食料生産システムの一つとなる可能性を示した。 資源量と自然増加率が算出されれば資源を損なうことなく有効利用が出来る。 そしてミンククジラ資源量の推定はあらゆる海洋資源のなかでも最も正確なものであるとの合意がなされている。さらに、ミンククジラの資源状態が非常に良好であることは反捕鯨国の科学者たちも合意している。
しかし。1971年のIWC総会でアメリカの環境保護団体から捕鯨全面禁止の意見が出された。
この時代の背景についての分析は第二部で紹介するが、漁業協定の一つである国際捕鯨取締条約、その目的を守るためのIWC:国際捕鯨委員会に対して、突然介入してきた外部の感情論である。 科学的調査手段も分析力も持たない、誰の代表でもない団体が各国政府代表団の集まりである国際会議で発言することに驚きを禁じ得ないが、当時のラブ・アンド・ピース的ムーブメントのなかで肯定されていた「アナーキズム(無政府主義)」、「文明否定」、「神秘主義」、そして数値的・理論的裏付けを必要としない「観念論」が造りあげた新しい神=エコロジーは錦の御旗となりつつあったのだ。 さらに、彼らに発言力を与えたのは、周到な準備の下でベトナム戦争の非難を反捕鯨運動にすり替えようとした米国政府であったという分析は、すでに当時からなされていた。
1972年6月、ストックホルムで開かれた国連人間環境会議は1960年代から1970年代の高度成長による環境破壊や公害問題の国際協力のもとでの対策についての協議が目的であった。 しかし、会議ではベトナム戦争におけるアメリカ軍の無差別絨毯爆撃(北爆)や生態系を大規模に破壊する枯れ葉剤の大量散布に対する非難が集中し、即時戦争停止が求められた。 この問題を巡って激しい議論の応酬が続き、また、会議全体を通じて各国、自国の権利擁護と非難回避の外交的駆け引きに終始する状況であった。 開催国のパルメ首相の「環境保護問題の解決は、平和な世界、国際協力が行われる世界でおいてのみ可能である。未来に対する目と新しいインターナショナリズムに至る展望を切り開こう」との言葉とはかけ離れた会議進行となり、他国の非難と自国の擁護で紛糾する中、アメリカから「商業捕鯨10年間凍結案」が提出された。