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第三部 対日包囲網〜商業捕鯨撤退までの経緯V |
資源ナショナリズム |
歴史的屈辱外交〜異議申し立て撤回 |
それから |
アメリカの脅迫 |
捕鯨訴訟 |
第四部 サンクチュアリー 調査捕鯨の苦闘 |
マッコウ捕鯨を巡る攻防 |
せめて人間らしく〜正義を抱いてここに倒れる〜 |
参考資料:主要鯨種解説
捕鯨年表 |
1977年、国連の海洋法会議でケニアの提唱した「排他的経済水域」は、領海とは異なり、水域内の天然資源に限る支配権を設定するということであった。 この提案は沿岸国の漁獲能力を超える許容漁獲量の余剰分は、他国にも権利を与えるという趣旨であった。 この提案は国際法として採択される前に、アメリカ等、各国が相次いで先取りする形での設定を宣言し始めた。 日本はこのような国際情勢に対応するために、暫定措置として、この年「漁業水域に関する暫定措置法」を定めた。 しかし、既存の日韓漁業協定や日中漁業協定に対して、これを一方的な宣言をもって主張することは、漁業秩序を脅かすことになるという配慮から、設定区域を限定し、また、韓国、中国に対しては規制しないという緩やかなものであった。 この措置は1994年発効の「海洋法に関する国際連合条約」を日本も批准するまで効力を持った。アメリカはケニア提案の審議中に、いち早く「漁業保存管理法」という国内法によって200海里水域を決定し、さらに「パックウッド・マグナソン修正法」(以下、PM法)、「ペリー修正法」、「ブロー法」を次々に成立させた。
ブロー法はアメリカ200海里水域内で段階的に外国漁船を締め出し、入漁料を引き上げて取締を強化するとともに、漁獲割り当てを水産貿易に連動させるもので、ケニア提案の経済水域案とは大きく異なっている。
PM法とペリー修正法は、捕鯨国に対する制裁を目的としたアメリカの国内法で、「IWCの保護効果を減ずるような行為をした国に対し、アメリカ200海里内での漁業を制限する」「このような国に対してアメリカに水産物を輸入することを禁止する」 とした内容であった。 アメリカ政府の主張するPM法の根拠は、「アメリカ国民の感情としての反捕鯨の権利」を守ることである。もはや、なりふり構わずの様相であるが、自国民の権利を保護する目的のはずの国内法で他国を裁こうという理屈は、アメリカ合衆国憲法の規定で「国際法より国内法が優先する」という(勝手な主張だが)ものがあるので、構わないらしい。 「世界の警察」を自認し、実際、各地の紛争などを和平に導いてきた実績も持つアメリカではあるが、「強く、正しいアメリカ」を国内外に示さなければならないと政治家達が焦った場面での、強大な国力と軍事外交力をバックに他国をねじ伏せる図式は、まさに現代の帝国主義であろう。
ベトナムで犯した過ちを、さらに隠し、また、開き直るための捕鯨論争と外交的操作、世論誘導と強権の発動は断じて受け入れ難い。
また、このアメリカに両手を摺り合わせて従った日本人政治家がいた。 戦後の首相でも最右翼に属する軍国主義者であり、日米安保体制下の軍事力増強のためにはアメリカのご機嫌を伺って、自国民の正当な権利を捨てても、犬のようについていかなければならないとでも思っていたのだろう。 日本の漁業に壊滅的打撃を与え、また、日本国の自主自立を妨げ、対米従属の図式を決定的にした最大の戦犯であるこの人物とは、当時の内閣総理大臣・中曽根康弘氏である。
1984年、ブエノスアイレスで開かれたIWC第36回総会に於いて、日本は国際捕鯨取締条約の規定に基づいて、まずは日本沿岸のマッコウクジラ捕獲枠(ゼロ)に対する「異議申し立て」を行った。この年は自主規制として、400頭の捕獲を計画した。
しかし、南氷洋捕鯨に関して、82年総会で決定していたモラトリアム決議に異議申し立てを行えば、アメリカはPM法を発動して日本を制裁することが目に見えていた。8月中旬、ワシントンで行われていた日米捕鯨会議(IWCではなく、米国との会議で決着が付くというところが問題の本質を表しているように思うのだが)に、おいて米国は「日本がIWCに異議申し立てをして、このまま捕鯨を続けるのなら、アメリカは制裁措置として対日漁獲割り当てを、一年後に半減、二年後にゼロとする」 という、強硬な態度に出た。 この当時、日本の外国での水産物漁獲高は約200万トン。 このうち110万トン、1300億円がアメリカ200海里内での水揚げである。 捕鯨による生産高は沿岸と南氷洋を併せて年間137億円あったが、日本の遠洋漁業が壊滅的打撃を受ける米国200海里内全面漁獲禁止をカードに出されては、いよいよもって追いつめられた感が強かった。
IWCを脱退しても、相手は科学的根拠や国際的信義を重んじる「国際社会」ではなく、「アメリカ合衆国政府」である以上、捕鯨を続ける限り報復を避けることは出来ないだろうと思われた。
8月下旬、水産庁は南氷洋ミンククジラ捕鯨のモラトリアム決議に対する異議申し立てのための準備を始めていた。 日本政府はソ連やブラジルの異議申し立ての動きを見ながら慎重に準備を進めた。 この年の11月にはアメリカで大統領選挙が行われる予定となっており、 日米貿易摩擦やそれに関連する制裁法、スーパー301条の発動に関する動きや、FSX(時期支援戦闘機)選定などの問題と相まって、日米関係は緊張が続いていた。 レーガン大統領の態度は終始強硬で、主人に忠誠を誓う犬のような中曽根康弘首相の下、水産庁や捕鯨業界は孤立無援に奮闘していた。サカナを取るかクジラを取るか、の二者択一を迫られた形になった日本だが、この時点で、まだ闘おうとすれば対抗措置は考えられた。 国際捕鯨取締条約のもと、IWCで話し合われるべき問題をアメリカが脅迫外交によって押しつぶそうとすることは本来、国際的信義に違反することであるが、 アメリカがPM法を発動させた場合、日本が、他の経済、軍事、その他の場面ですでに譲歩していたカードをもって全面対決に入るのならば、闘う力はあったのである。 そしてペリー修正法に対しては、対抗措置として日本も同じような規制策を取った場合、水産物貿易は圧倒的に日本の輸入超過(貿易赤字)なのであるから、アメリカは痛手を負うはずであった。 さらに言えば、ペリー修正法はガット(関税貿易一般協定)違反の疑いが強く、国際機関に提訴した場合アメリカ敗訴は濃厚で、そうなればガットでのアメリカの指導的立場は揺らぐこととなり、日米関係での主導権にも影響したはずであったのだ。
実際、対抗手段については、社会党及び、賛同した自民党の一部からも国会提出の動きが出ていたのだが、寸前になって中曽根首相の近辺からの鶴の一声で潰されてしまった。
この年の沿岸マッコウクジラ捕鯨は、IWCの決定した捕獲枠はモラトリアム発動期限の前にしてすでに「ゼロ」であった。これに対し日本は異議申し立て(沿岸マッコウクジラ捕獲枠について)をすでにしているので、例年通り10月1日からの出漁が可能であった。 しかし、これを見越してアメリカ政府は、9月半ば過ぎから「沿岸のマッコウ捕鯨船が操業すれば、アメリカ200海里内で制裁措置をとる」と警告していた。
9月終わりにブラジルが、続いて10月2日にはソ連が南氷洋ミンククジラ捕獲枠について異議申し立てを行った。 日本政府は外務省を中心に慎重に協議を行い、申し立ての時期を検討していた。
沿岸マッコウクジラ漁については日本はIWC決定に拘束されないのだが、 すでに漁期にはいっているこの時点でも、まだ出漁を見合わせていた。 水産庁は頭数を明記していない操業許可証を準備していたが、10月半ば過ぎ、ついに神奈川県の三崎港と和歌山県の那智勝浦港から出漁。 当然の権利を行使したまでであったが、アメリカは「一頭でも捕獲すれば、その時点でPM法により制裁を加える」と声明を出していた。 日本政府は、PM法が発動され、効力が生じるまでには二週間ほどかかるとみて、最後の日米協議を行うこととした。
11月1日からワシントンで再開した日米捕鯨協議は、日本側代表の佐野水産庁長官、アメリカ側のバーン海洋大気局長の間で始まった。 交渉は、日米ともアメリカの報復措置という最悪の事態を避けるために、双方の見解の相違について予定を延長して話し合われた。 この時点で、アメリカ政府に、国際交渉に臨む国としての誠意があったのかどうか、いまとなっては定かでない。 最初から日本は罠にはまりつつあったのだろうか。 いや、罠というより、この交渉の結果は、所詮、日米関係などというものは対等の立場ではなく主従関係のようなものであったことを示している。 この頃、第二次内閣をスタートさせた中曽根康弘氏のように徹底的に卑屈な態度で平伏することをよしとするならば、日本国民に誇りはない。当初、アメリカ政府は歩み寄りの姿勢を持っているように見えた。 交渉の経過は公表されていなかったが、グリーンピースや動物愛護国際基金などの団体がその内容について知っているようで、日米間でマッコウクジラ捕鯨継続を認める合意がなされようとしているとして、これを差し止める訴えを連邦地裁に起こすことを発表していた。
日米協議10日めの夜、日本沿岸のマッコウクジラ捕鯨を1988年から取りやめ、その間アメリカは対日制裁をしないことに合意。IWCでは1986年からの沿岸捕鯨禁止を決議(1982年のモラトリアム決議)していたことから、日米合意はこれを2年間延長することになった。 この交渉で日本はマッコウクジラの捕獲枠に対するIWCへの異議申し立てを取り下げることとし、その手続きをとった。 日米合意では、沿岸マッコウクジラ捕鯨について、日本が異議申し立てを1984年12月13日までに撤回すること。 これによりアメリカは1984年と1985年のマッコウクジラ捕獲枠をそれぞれ400頭認める。 また、日本が商業捕鯨禁止に対する異議申し立てを1985年4月1日までに撤回すれば、さらに1986年と1987年にそれぞれ200頭の捕獲を認めるという内容であった。 これにより、日本の沿岸マッコウクジラ捕鯨は1988年3月をもって終了することとなった。 南氷洋ミンククジラや他の鯨種についての交渉がこれからの難題として懸念されつつも協議は終了した。しかし、協議終了後にアメリカ政府の発表した合意事項の中に、南極海捕鯨規則も入っていたのである。
アメリカ側は日米の合意により1988年以降、日本が商業捕鯨から撤退すると発表した。
もちろん、日本側は今回の合意はマッコウクジラ捕鯨が1988年以降撤退することのみであると主張したが、
アメリカのボルドリッジ商務長官は「日本が合意に基づく措置を実行しない場合、アメリカは直ちに国内法を適用して制裁措置をとる。日米合意は商業捕鯨全面禁止への積極的な前進である」と声明を発表した。
アメリカ側の主張は、結論としてIWCの決定(モラトリアム決議)の全面禁止開始日を条件付きで2年延長する内容であるので、それ以後日本は捕鯨から足を洗い、クジラを食べる習慣を改めよというものであった。
驚いた日本の水産庁は
「マッコウクジラ捕鯨以外の撤退については協議していない。アメリカ側の一歩的な表明である」と発表。
しかし、アメリカが主張を覆すとは考えられず、もはや状況は変えようがなかった。
およそ戦後国際社会の場で、これほどまでに理不尽で日本がこけにされたことがあっただろうか。 国際政治に於ける謀略説などというものは妄想じみた三文作家の書いたコンビニ本くらいにしか無い話に思われるが、ここに日本政府は完全に罠にはまったのである。「サカナを人質にクジラが狙い打ち」にされたと、当時、評されたこの脅迫外交であったが、さらに驚くべき事態へと進展して行く。
米200海里内漁業権(主に北洋トロール)に対するPM法の発動回避のため、捕鯨を切り捨てることを選択せざるを得なかった日本は、数年後、「自国漁業の保護・育成」の名の下に米国200海里水域内漁獲割り当てをゼロにされてしまうのである。
後にそのような事態になるとはとても予測していなかった日本は、日米捕鯨合意の後、PM法回避のために1982年IWCのモラトリアム決議(1985年以降の商業捕鯨全面禁止)に対する異議申し立てを取り下げることを決定した。全ては終わった。しかし二重・三重に張り巡らされた罠は、まだ次々に襲いかかってきた。(捕鯨訴訟、調査捕鯨禁止の恫喝、RMS:改訂管理制度の完成阻止、南氷洋サンクチュアリー決議など。)
日米捕鯨合意の内容は、1985年以降の商業捕鯨を禁じたモラトリアム決議に対する異議申し立てを日本が取り下げるかわりに1987年までの商業捕鯨を認め、その時点で日本が捕鯨から撤退すれば米国はPM法による対日制裁をおこなわないというものであった。
しかし、これに対して米国の環境保護団体が、米国政府、大日本水産会、日本捕鯨協会の三者を相手取り合意無効の訴訟を起こした。
両国が敗訴すれば、IWC決議に従い1985年漁期を最後に商業捕鯨は即時撤退することになる。勝訴した場合は日米合意に従い1987年漁期で商業捕鯨は撤退する。
環境保護団体が米国政府を訴えるなどということは、まるで茶番劇であるが、環境保護団体側が勝訴すれば日本は商業捕鯨から即時撤退、敗訴すればいずれにせよ1987年で撤退だが米国政府は日本政府に対して「最大限の譲歩を盛り込んだ合意事項を守るべく闘った」というポーズを示せる。 日本としては最大限、捕鯨を続けるためにこの裁判を闘わなければならなかった。
茶番劇は後者のシナリオを選択した。米国最高裁は環境保護団体の訴えを退ける形で結審した。これにより南極海捕鯨は1987年3月限り、沿岸捕鯨は1988年3月限りで終了することとなった。 ソ連、ノルウェーなども捕鯨撤退を表明しているので、この日本の撤退をもって世界の商業捕鯨は終わりを告げることとなった。 ノルウェーは当初、捕鯨継続を表明していたが、アメリカからの水産物輸入禁止の恫喝を受けており、これに屈したのである。
人類の生んだ最高の英知は民主主義ではなかったのか。
そして民主主義とは単なる利害の調整機構ではなく、力を持たざるものにも正当性があればその権利を認め、友好と協力のもと全ての人々にとって最良の選択を追求するためのものではなかったのか。
個人差、地域差、文化の差があるからこそ、それぞれの主張の正当性と根拠を基準に権利の分配をしてくはずではなかったのか。
多数の論理で取るに足らない事柄が少数者にとって死活問題であるとき、これに耳を傾けるのが民主主義ではなかったのか。『クジラが絶滅しそうだというなら今すぐきっぱりと捕鯨をやめてやる。しかし、ミンククジラは増えているじゃないか。 最低76万頭が確認され今も大増加中のミンククジラを、毎年増える分だけだって、どうやって取り尽くせるんだ。
嘘だと思うなら南極まで来て自分の目で見てみるがいい。見渡す限り一面を覆い尽くしたクジラの噴気、氷山の浮かぶ夕暮れの海を移動してゆく数千頭のクジラの群を。 自分で数えてみるがいい。調査の数字に文句をつけるなら一緒に船に乗って全部チェックしてみればいいじゃないか。 発見された頭数から全体を推定する式なんて、最低限を求めるのなら簡単な算数で解る。
最初はクジラが減っているから獲るなという主張だったじゃないか。それが圧倒的に豊富な資源であることが解ったら、今度は知能が高いからとか、愛すべき動物だからとか、 ついに化けの皮がはがれたな。嫌いなんだろ、クジラを食べる我々が。あんたたちに食べろとは言ってないじゃないか。 あんたたちはせいぜい、顔をしかめてかわいそうと思うだけだろう。我々にとっては文化であり、産業であり、生きる糧なんだ。
我々日本人が初めて南氷洋に来たとき、すでに戦前の乱獲でシロナガスは激減していた。戦後のオリンピック方式でさらに資源を痛めつけた時期には日本人も加担している。 反省はしなくてはならない。資源を減らさずに持続的利用をするシステムができあがった頃、鯨油の採算性の問題で撤退していったあんたたちが、 我々以上に反省しているとは思えない。ミンククジラの資源管理については国や企業の思惑に左右されない真に科学的な方法ができあがっている。 それが科学である以上、反捕鯨国の科学者も正しいと認めているのだから、もはや間違いは犯さない。
クジラを食べることが嫌いだから食べない、というのと、クジラを食べることが嫌いだから他人にも食べさせない、ということは全く違う意味を持っていることに気がついていないのか。
もう一度言う。ミンククジラが絶滅しそうだというなら今すぐきっぱりと捕鯨をやめてやる。しかし、ミンククジラは増えているじゃないか。 あんたたちに食べろとは言ってない。嫌いでもいい、他人にまでそれを押しつける権利がどこにある。あんたたちは世界の神か。』私(当サイト制作者)は、かつて捕鯨船員でした。上記は私の個人の主張ですが、陸に上がると無口な捕鯨船員たち、みんなの想いは同じようなものです。
『わが国捕鯨業は、国際捕鯨委員会の商業捕鯨モラトリアムの決定とそれにもとづく日米捕鯨協議の結果、南氷洋捕鯨事業は今漁期以降一時中止および沿岸捕鯨は来漁期以降一時中止しなければならない事態に至っている。
この事態は、過去10年余にわたり反捕鯨勢力の圧力のもとに屈服を余儀なくされたことと、特に米国の対日漁獲割り当てを人質とした卑劣な威しに屈した政府の漁業制作に対し、われわれは強く抗議するものである。
わが国捕鯨は、今まで国際捕鯨取締条約の精神と規則を遵守してきており、諸外国に対し人的経済的に何ら被害を与えていないことから、商業捕鯨の一時中止は納得することは出来ない。
政府は、わが国捕鯨関係者に対し捕鯨存続の方針を明らかにするとともに、国際捕鯨条約と「科学的調査に関する決議」に沿い、わが国の主権のもとに調査捕獲を実施し、資源の包括的評価を経て捕鯨業の再開を図るため、必要とするあらゆる措置を講ずることを強く要請するものである。
以上決議する。第3日新丸船団、商業捕鯨禁止抗議船内大会』
これは1987年4月13日、最後の航海から東京港に帰港した捕鯨母船第3日新丸の入港式で発表された大会決議である。
ミンククジラを対象とした捕鯨において、我々は何一つ間違いは犯さなかった。最後まで胸を張って正しさを主張しながら、大国のエゴと差別主義者の力の前に倒れてゆくのか。
はたして、正義の価値は。
1982年のモラトリアム決議には次の一文が含まれていた。
「ただし最良の科学的助言に基づく検討により、遅くとも1990年までに資源の包括評価を行い、モラトリアムの修正について検討する。 」1978年より、南極海ミンククジラ資源を目視調査により把握するため、IWC主要国の科学者により、『IDCR:国際鯨類調査10ヶ年計画』がスタートしていた。
これは「目視理論の発展をうながし、推定資源量の精度をより高めたという意味で高く評価されている」(日本鯨類研究所)もので、反捕鯨国のアメリカ、イギリスなどの科学者もふくむ国際プロジェクトである。
もちろん日本も主導的に参加していたが、「1990年」をにらんで、どうしても必要な致死的調査(捕獲調査)のデータを得るため、そして商業捕鯨再開を目差しての捕鯨技術の維持、存続のために、調査捕鯨を開始した。
この、調査捕鯨は国際捕鯨取締条約第8条に「IWC加盟国政府は独自の判断と条件で科学的研究を目的とする捕獲に許可を与えることができる」と明記されている通り、当然の権利なのである。IWC第39回年次総会(英国:ボーンマス)は反捕鯨活動家にほぼ乗っ取られたかたちで、正常な議事運営が行われない異常な状態であった。日本はここで調査捕鯨の計画を提出するが、総会で中止勧告決議を採択されてしまう。 結局、大幅に規模縮小した計画に基づいて、この年1987年12月23日、第一回の調査捕鯨船団は出航した。
この後、ミンククジラ資源の評価が合意されたこと、しかし1990年にはモラトリアム撤回はなされず現在に至ること、商業捕鯨再開を絶望的にさせた「南極海クジラ聖域(サンクチュアリー)案」の採択、など死線を巡る攻防が続いている。 この間の経緯については次章・第四部に続く。